クリスマスイブは、都立大のレストランで夫婦でコンサート付きの食事を楽しむ。

クリスマスイブは、都立大のレストランで夫婦でコンサート付きの食事。

自分たちと、娘、息子夫婦の一年をふり返る。

都立大は、最近宮台教授が暴漢に襲われた場所。
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朝は、今年最後のヨガ教室。「太陽礼拝」中心で50回。

太陽礼拝は、感謝とともに太陽に祈る動作。連続した12のポーズをとることで、「一日の始まりに、太陽に挨拶し、その恵みに感謝する」という意味がある。

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月曜日のインタビューに備えて、JAL時代の仕事の整理、その時代も資料をつくる。

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「名言との対話」12月24日。三橋鷹女「堕ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み」

三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - 1972年4月7日)は、女流俳人

千葉県成田市出身。三橋家は代々、和歌をたしなむ家出あった。成田高女を卒業後。上京し次兄・慶次郎のもと寄寓。慶次郎は歌人若山牧水与謝野晶子に師事しており、鷹女は短歌を始めた。1922年、俳人でもあった歯科医の東謙三と結婚する。

鷹女は夫から俳句の手ほどきを受け、夫とともに、『鹿火屋』主宰の原石鼎に師事、その後小野燕子の『鶏頭陣』に参加。1936年、『紺』創刊に参加し、女流俳句欄の選者となる。1953年、富沢赤黄男の『薔薇』、『俳句評論』に参加し。1969年、湊陽一郎と同人誌『羊歯』を創刊。後に、『俳句評論』の顧問。

こういった多彩な経歴の影響からか、鷹女は「写生」という方法にこだわらなかった。口語表現を駆使するなど異色の存在であった。

三橋鷹女の作品を取り上げてみよう。

 くちびるに夜霧を吸へりあまかりき

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

 みんな夢雪割草が咲いたのね

 初嵐して人の機嫌はとれません

 堕ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

 暖炉灼く夫やタンゴを踊ろうか

 暖炉昏し壺の椿を投げ入れよ

 寒月光こぶしをひらく赤ん坊

 めんどりよりおんどりかなしちるさくら

 蔦枯れて一身がんじがらみなり

 薄紅葉恋人ならば烏帽子で来

 しゅうせん(ブランコ)は漕ぐべし愛は奪ふべし

鷹女は当時の女流俳壇では、橋本多佳子、中村汀女星野立子と並び、「四T」と称されている。いずれも有名な女流俳人である。

 

橋本 多佳子(はしもと たかこ、1899年明治32年)1月15日 - 1963年昭和38年)5月29日)。女性の哀しみ、不安、自我などを女性特有の微妙な心理によって表現した。「月光にいのち死にゆく人と寝る」

中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月11日 - 1988年(昭和63年)9月20日)。生活に密着した素直で叙情的な作品が多かった。「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」

星野 立子(ほしの たつこ、1903年明治36年)11月15日 - 1984年昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人高浜虚子の次女。立子の句は、師匠の虚子の「写生」を引き継いでおり、自由、平明、清澄、清新な趣がある。「雛飾りつつ ふと命惜しきかな」

三橋鷹女は、自由な口語表現、ひらかなだけの俳句の試み、そして女の情念を大胆な切り口でうたう俳風で、魅力がある。「堕ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み」を代表句としたい。夕日が落ちてゆくではなく、自身が堕ちてゆく。それは一文字を空けていることでわかる。そして真赤な夕日を股に挟むというのは実に大胆不敵だ。太陽とともに堕ちていこうとする気迫を感じる名句である。