「春風や次郎の夢のまだつづく」−−遅咲きの作家・新田次郎の生き方

 新田次郎(1912−1980年)はペンネームである。
 この人の生まれは諏訪町大字上諏訪角間新田で生まれたことと、次男坊であったことを合わせて、新田(シンデン)をニッタと読ませて、新田次郎になった。ペンネームのつけかたの一つの典型である。自身の家の屋号を用いた堺屋太一、出身地の名前をつけた石ノ森章太郎など、こういうペンネームのつけ方は多い。新田次郎の本名は藤原寛人である。
 18歳で無線電信講習所(現在の電通大)に入り、卒業後20歳で叔父の藤原咲平の紹介で中央気象台(気象庁)に入台する。そして直後の昭和7年から12年まで富士山観測所で仕事をする。31歳、満州国中央気象台課長となるが終戦でソ連軍の捕虜となる。妻ていは、3人の子供を連れ辛酸をなめて帰国。新田はソ連軍から解放された後、34歳で気象台に復職する。39歳の時に妻が「流れる星は生きている」という本を書きベストセラーになる。
この刺激が作家・新田次郎を誕生させることになった。「強力伝」を書き懸賞小説に当選する、これが43歳で出版され、翌年いきなり直木賞を受賞する。その後、「蒼氷」など山岳小説、推理小説を書いていく。本業では51歳で測器課長に昇進し、富士山気象レーダーの建設の歴史的大役を成功させる。
54歳で気象台を退職し、筆一本の生活に入り、「八甲田山死の彷徨」、「武田信玄」など多くの名作を生む。退職後13年後の67歳のときに心筋梗塞で逝去する。

 山に題材を取った小説が多い新田次郎は、山男だった。諏訪市図書館の二階に新田次郎コーナーがあり、遺品が展示されている。姿の美しいピッケル、高級な登山靴、品のいい帽子、そして登山服を注文するための詳細なスケッチなどが目に入る。随分といい品物を持っていたのだなあと思っていたら、妻の藤原ていが、「新田さんは、平常の服装はむとんじゃくであったが、山の装備は最上のものを用いた」と書いている文章を添えてあったので納得した。
 取材ノートは、市販の100円ノートと同じく小型のものが中心だが、キティちゃんのhappy noteも使っていたのは愉快だ。
 新田次郎関係の書棚があった。新田次郎本人の著作、全集が並んでいる。そして新田次郎を書いた関連本、そして家族の著作というコーナーもある。
 妻の藤原ていは「絆」、「生きる」、「たけき流氷」、「旅路」、「あなた、強く生きなさい」、「流れる星は生きている」などを作品がある。
 息子のの藤原正彦は数学者となるが、としての著作や、エッセイが多い。妻ていは「その(次男)の文章が、父親より上手だと知人に言われて、天下をとったようによろこんだのは、本人よりも父親の方であった。」とも語っている。近年大ベストセラーとなった「国家の品格」は、記憶に新しい。
 娘の藤原咲子は、「父への恋文」、「母への詫び状」などの著作がある。
 正彦の妻の藤原美子は、「子育てより面白いものが他にあるだろうか」という著書を書いている。
 数年前、日本本ペンクラブの例会に初めて出席したときに、家族4人がペンクラブの会員である珍しい例としてこの藤原家を紹介していたことを思い出した。文筆の才能は遺伝か、それとも環境か。藤原正彦の「若き数学者のアメリカ」という処女作は、この父親が骨を折って生まれた作品である。
 新田次郎の蔵書の一部も見ることができる。「遠近の山」、「山との対話」、「山の足音」、「歓びの山 哀しみの山」、山の天辺」、「単独行者の気憶」、「孤独なザイル」、「アルプスの山旅」、「上高地の大将」、など山に関する本がやはり多い。新田次郎は「山岳小説」と言われることを好まなかった。山岳を題材にとって人間を描いていると自覚しているが、やはり山という部隊を誰よりも深く知っていた。

 新田次郎は本名の運輸技官・藤原寛人の名前で、30年勤続の表彰状をもらっている。仕事に対する誇りを持っていたことをうかがわせる。息子の藤原正彦のエッセイを読むと、直接はもらさなかったらしいが大学出の学士との待遇の差に心を傷つけられていたようだ。

 再現された書斎は、8畳で、炬燵つ机と座椅子の組み合わせである。和服姿のやや小太りの穏やかな写真も展示されている。
  如月の すわ湖思えばなつかしや 下駄スケートの緒のゆるみを(新田次郎
下駄スケートという言葉は初耳だったが、島木赤彦の記念館のある諏訪湖博物館の入口に「下駄スケート発祥の地」というプレートとそれを楽しむ子供たちの彫刻があった。

 新田次郎が、小説家として自分の誕生の過程を64歳のときに誠実に書いた本「小説に書けなかった自伝」(新潮社1976年刊)を興味深く読んだ。

 二足の草鞋を履く心得の部分を抜き出してみる。
「役所では言動に慎み、小説のことを噯気(おくび)にも出さないいうにするし、仕事の方も人一倍熱心に勤めていた。」
「十年間私は役人作家としても座を守っていた。」
「課長の佐貫さん(佐貫亦男?東大教授)には、いちいちことわって出て行った。隠すことはよくないと思ったから、なんでも話した。、、、私の小説が載った雑誌は必ず何冊か買って課員に回覧することにした。課員に対して私の夜の仕事を認めて貰うためだった。」
「小説は書き始めてから十年、気象庁の仕事は三十年だった。この三十年間、自分の能力を思う存分使ったということは一度もなかった。」

 自宅での執筆活動は、「戦場」であった。
「退庁時刻が午後五時。国電に乗って吉祥寺の自宅へ帰るのが午後六時過ぎ、食事をして、七時のニュースを聞くと、自分の部屋に引きこんで十一時までみっちりと書いた。四時間以上書くことはできなかった。床に入ると、すぐ寝入ってしまった。」
「午後五時になって解放されたときは、ほっとした。ああこれから明朝までは自分の時間だと思うと嬉しくてたまらなかった。」
「役所から帰って来て、食事して、七時にニュースを聞いて、いざ二階への階段を登るとき、<戦いだ、戦いだ>とよくいったものだ。、、七時から十一時までは原稿用紙に向かったままで階下に降りて来ることはなかった。」

 新田次郎は、遅咲きであることをよく知っていた。
「四十を過ぎて作家になったのだから、なにか特徴のある作家としての存在を認められないかぎり、必ず脱落してしまうだろう。ではいったいなにを主軸に書いて行くべきかというのが、私に取って大きな課題だった。」
直木賞受賞以来の自分自身の心の動きと、読者の評価を勘案すると、山を舞台とした小説(山岳小説)を大事にしなければならないことがはっきりして来た。、、読者が私に求めるものがなんであるかが、おおよそ分かりかけたような気がした。」
「作家として一本立ちできるぞと青空に向かって叫びたい気持ちになった。小説を書き出してから十六年経っていた。」

 小説技法と執筆スケジュールの管理には、技術屋としての仕事ぶりが投影されている。
「当時私は短編長編に限らずすべての小説を書くに当って次のような作業順序によっていた。1.資料の蒐集 2.解読、整理 3.小説構成表 4.執筆。小説構成表というのは、筋書きをグラフ化したもので、横軸(時間軸)に相当するものが頁数になり、縦軸には、人物、場所、現象などに適当なディメンションを与えて設定した。人物の相違は色で書き分けた。」
「私は小説を書き始めて二十年以上になるが、たったの一度も原稿を遅らせたことはなかった。これは、約束を履行するために安全率を掛けた仕事をやっていたことを示す以外の何ものでもない。」
「私は、引受けたからには納期は絶対に守るべきだとういう信念を押し通した、、、このためには無理な仕事ははじめから引受けないことにした。一ヶ月に最低一週間の余裕を常に保持するようにつとめていた。」

 さて、記念館ができるほどの人物の実像は、妻、子供など日常生活を一緒に送った家族の証言が一番信用が置ける。そういった書物は、記念館という現場で手に入ることが多い。新田次郎の小説と「小説に書けなかった自伝」と、妻のてい、娘の回想録、そして次男のエッセイの中にでてくる人間・新田次郎の落差は大きい。

「わが夫 新田次郎」(藤原てい)では、遺書のつもりで書いた作品「流れる星は生きている」がベストセラーとなった妻からみえる夫・新田次郎の日常が詳しく描かれている。
夫の前では学歴の話題は禁句になっていた。夫はいわゆる昔の専門学校出身であり、職場では悲哀を感じていたであろうとこの妻はよく理解していた。新田は、まちがえても、自分が悪かったとは、決して言わない人だったらしく、その情景が怒りを持って書かれている。ていの書いた作品がベストセラーになって、講演に歩くようになっても、「収入が多いのが、えらいんじゃないぞ、、」と常に言って聞かせたそうだ。

小説の書き方と同時に、新田の意気込みがわかる。
「自分で計画をたて、自分にノルマを課して、どんなにビールが飲みたくても、そのノルマが終わるまでは、書斎にとじこもっていた。」「夫は多忙な日々を送っていた。長編を一年に一作。その計画のもとに、丹念に資料を集め、作品に心血をそそぐい込んでいった。「戦場にのぞむ武士の心だ」よくそんなことを言った。そして「新しい本が出来上がると、必ずその晩は枕元に飾った。」とほほえましく描写している。

「夫は、よく、一日の仕事の進捗ぶりを私に話すくせがあった。」というから、物書きとしての仲間としても妻をみていたのだろう。
「夫は、原稿を書き出すと、その作品が出来上がるまで、二ヶ月でも三ヶ月でも、その作品のとりこになってしまって、他のことはいっさい忘れているらしかった。」
「「オレが死んだあとでも、みんなに読んでもらえるようなものを書きたいだけだ。、、一年に一作だけでいい、精魂をこめて長編のいいものを書きたい」とくりかえしていた。夫は、事実、66歳の春に、自分用の原稿用紙を三万枚注文していた。一日に十枚ずつ書くとしても、約10年はかかる計算になる。そして書くべき資料は、3年先の分まで、書斎に整然と積んであった。」「80歳ぐらいまでは書けるだろう」
67歳から本人の望みでもあった80歳まで小説を書くとしたら、それまでの13年間は作家・新田次郎の前半ということになる。後半があったとしたら、どれほどの優れた作品を書いただろうかと想像する。
妻・ていのこのエッセイは、新田次郎本人が書いた自伝が表向きの顔だとしたら、裏からみた顔であり、新田次郎という作家の姿と心理がよくわかる作品である。

 俳句をたしなむ新田次郎は、「春風や次郎の夢のまだつづく」という句を死んだら墓石にきざんでおくれと語っていた。後半の作家人生があたっとしたらと感じさせる名句である。

 「「父への恋文」(藤原咲子)は、愛娘が書いた父の回想録である。娘には、「読むことは築くこと、書くことは創ること  新田次郎」という書を書いて渡していた。
「(母のベストセラーの印税で土地を買い、家を建てた。)父が筆を折らなかったのは、男としての屈辱からだった。」娘の目も父の心を鋭く見抜いていた。
「お父さんが死んだらね、作家新田次郎はこんなふうにして書斎で原稿を書いていたっていうことを、ちゃんと覚えていて、しっかり作品に残すのだよ」。この娘は、父との約束を立派に果たした。
「寒梅や思い残して西ひがし  次郎」、これが新田次郎の辞世の句である。
 咲子の「母への詫び状」には、自慢の息子・藤原正彦のことが書かれてあった。「父は次兄の奔放な才能が自慢だったと思う。次兄をモデルに作品を書きたいと言っていたし、父の作品の中には次兄らしき人物が登場しているものもある。」

 妻の藤原ていは、夫の死後夫の望んだ文学賞を設けた。新田次郎は若い作家を励ます賞を設立したいと願っていた。この歴史、現代にわたり、ノンフィクション文学、または自然界を材の取った作品に対して与えられる賞である。副賞の賞金は100万円であるが、正賞は気圧計というのが面白い。この賞は、第1回の沢木耕太郎から始まり、辺見じゅん鎌田慧宮城谷昌光半藤一利、西木正明、熊谷達也真保裕一などが受賞している。
最近の新聞によると第29回新田次郎文学賞新田次郎記念会主催)が3月12日、帚木蓬生さんの「水神」(新潮社刊)と松本侑子さんの「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」(光文社刊)に決まったというニュースが載っていた。今年でもう29回になる。「次郎の夢やまだつづく」である。

 新田次郎はおおまかにいうと、役人として仕事をしながら、44歳で作家となり、その後10年間は「役人作家」として二足の草鞋を履き、54歳から作家として一本立ちした。作家としては遅咲きの人である。本業を大事にしながら、慎重に自分のやりたい方向に人生の舵を切りつつ、ある時点で好きな道に入り、思い切り命を燃焼させる。この人の場合は、本業の技術者としての仕事の経験が作家としての仕事ぶりによい影響を与えているようにみえる。一筋の道を歩いているときに、二本目の小さな道が現れ、しばらく両方を歩いて行き、あるとき新しくできた道に乗り換えていく。己を知った人の仕事ぶりであると感銘を受ける。