剛の藤島武二と柔の岡田三郎助

横浜そごうで「藤島武二・岡田三郎助展」が開催中だ。

上:藤島の代表作「婦人と朝顔
下:岡田の代表作「あやめの衣」
藤島武二(1867-1943年)と岡田三郎助(1869-1939年)は、1868年の明治維新を挟んで生まれており、同世代だ。藤島は横顔の女性像、岡田は気品あふれる画風で知られている。2人とも近代洋画の世界で大きな足跡を残しているのだが、その人生行路が全くと言ってよいほど似通っていることに驚いた。

  • 1891年。藤島24歳、明治美術会の会員。岡田22歳、明治美術家会員。
  • 1896年。藤島29歳、岡田27歳、同時に白馬会会員。同時に東京美術学校西洋画科助教授。
  • 1897年、岡田28歳、フランス留学。
  • 1906年、藤島39歳、フランス、イタリア、スイス滞在。1910年帰国。
  • 1912年、藤島45歳、岡田43歳、本郷絵画研究所設立。
  • 1913年、藤島46歳、岡田44歳、国民美術協会評議員
  • 1914年、藤島47歳、東京大正博覧会美術鑑査委員、岡田45歳、東京大正博覧会審査官
  • 1928年、藤島61歳、岡59歳、皇太后より同時に宮中御学問所を飾る油絵絵画制作を拝命。藤島教育功労者、岡田勲三等瑞宝章
  • 1933年、藤島66歳、勲三等瑞宝章
  • 1934年、藤島67歳、岡田65歳、帝室技芸員
  • 1936年、岡田67歳、勲二等瑞宝章
  • 1937年、藤島70歳、岡田68歳、同時に第一回文化勲章を受章。日本画は、横山大観竹内栖鳳
  • 1939年、岡田70歳、逝去。藤島72歳、陸軍美術協会副会長、東京美術学校洋画家科主任(岡田の後任)。
  • 1942年、藤島75歳、勲二等瑞宝章。逝去。従三位

藤島は薩摩藩、岡田は佐賀藩の出身で、同時に西洋画を志、その志を遂げて、同時に第一回の文化勲章を受章しているのは面白い。まさに切磋琢磨する永遠のライバルだったということだろう。日本画の方は、東京の大観と京都の栖鳳が受賞しており、美術界はこの4人で進めてきたのがわかる。

藤島は中国や韓国の服装をした日本女性を描いた。東洋とか西洋とかいう観念を撤回することが年来の藤島の主張だった。岡田は和服の女性を描いた。
藤島は男性美、岡田は女性美という中沢弘光の対比もある。また「武二の剛に対して三郎助の柔」とも対比される。
両画家の師匠であった黒田清輝は、岡田の特色は「形よりも色に於いて勝るれて居る」と評した。岡田君は初めからこういう絵を描くこうと考えて掛かり、そしてそういう画になると、黒田は言っている。そして岡田君は面倒臭いということを知らないとも評している。そういう緻密な絵であり、注意深く見なければその良さがわからない絵である。

この二人の関係は、親友というほどの近い関係ではなかった。反発することもなく、最も身近な画家同士という関係だたっとされているが、実際はどうだったのだろうと想像する。
藤島が岡田を語り、「上品さ何を描いてもついて廻っていた」「殊に美人画に興味を持っていて美しい絵を沢山描いた」と語っている。

藤島

  • 「油絵の本質は、どこまでもどこまでも突っ込んで行くところにある。体力のすべてを動員し、研究のすべてを尽し、修正に修正を重ねて完璧なものにするのが油絵である。そしてそれがためには断じて中途で挫折することにない強烈な意欲が必要なのである。」
  • 「油絵の筆触には、油絵の具を充分伸ばすだけの腕力」そして「腕力よりも一層腰の力が大事だ」

岡田は、寡黙な人だったらしい。その岡田は、骨董、美術品を愛好する傑出した工芸コレクターだった。

  • 「残るものは絵だけだよ。絵かきはそれで能(よ)いのだよ」