群馬の旅の3日目ーー上野三碑(山上碑。金井沢碑)。渋沢栄一記念館。塙保己一記念館。

ユネスコの「世界の記憶」に登録されている「上野三碑文」は世界遺産への登録を目指して活動している。地方行政の在り方、婚姻や氏族のつながり、仏教思想のひろがりなどがわかる。渡来人(新羅系)がこういった事業に参画している。

その一つの多胡碑(711年)は以前にみているので、今回は他の二つをみる。

「山ノ上碑」。完全な形で残る日本最古の石碑。天武天皇の681年に造立。

この地はヤマト政権の直轄地。この碑文を書いた放光寺の僧・長利の母方の系譜と父方の系譜を述べ、最後に母の供養のために建てたと記している。


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金井沢碑。726年に造立。一族が仏教の教えで結ばれいると書かれている。群馬のいわれがわかる。


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これで、上野三碑を全部めぐったことになる。

 

深谷市渋沢栄一記念館。東京の飛鳥山の渋沢史料館、青渕文庫は何度か訪問しているが、やっと深谷の記念館を訪ねることができた。

渋沢栄一アンドロイド」の「論語と算盤」の講義を聴いた。ドトール鳥羽博道氏の寄贈で、作者は大阪大学石黒浩教授だ。70歳のときの風貌。153センチ。


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本庄市塙保己一記念館。7歳で失明し、15歳で上京。国学の道に進む。34歳の時に「世のため、後のため」に『群書類従』の編纂を決意。40数年をかけて、正編666冊を完成させた。48歳では「和学講談所」を設立し門人の教育を行った。亡くなる1821年には盲人としての最高位の総検校に就任。76歳で没した。この人は極め付きの偉人である。


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埼玉ゆかりの3偉人は、塙保己一渋沢栄一、そして日本初の女医・荻野吟子だ。この3人の記念館を全部まわったことになる。この3人は縁があるので、別途書くことにしたい。

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「名言との対話」3月19日。藤島武二「油絵の本質は、どこまでもどこまでも突っ込んで行くところにある。体力のすべてを動員し、研究のすべてを尽し、修正に修正を重ねて完璧なものにするのが油絵である。そしてそれがためには断じて中途で挫折することにない強烈な意欲が必要なのである。」

藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。

藤島武二(1867-1943年)と岡田三郎助(1869-1939年)は、1868年の明治維新を挟んで生まれており、同世代だ。藤島は横顔の女性像、岡田は気品あふれる画風で知られている。2人とも近代洋画の世界で大きな足跡を残しているのだが、その人生行路が全くと言ってよいほど似通っていることに驚く。藤島は1943年3月19日に他界。

2011年に横浜そごうで「藤島武二・岡田三郎助展」をみた。藤島の代表作「婦人と朝顔と岡田の代表作「あやめの衣」が展示されていた。藤島は横顔の女性像、岡田は気品あふれる画風で知られている。2人とも近代洋画の世界で大きな足跡を残しているのだが、その人生行路が全くと言ってよいほど似通っていることに驚いた。

藤島は薩摩藩、岡田は佐賀藩の出身で、同時に西洋画を志、その志を遂げて、同時に第一回の文化勲章を受章しているのは面白い。まさに切磋琢磨する永遠のライバルだったということだろう。日本画の方は、東京の大観と京都の栖鳳が受賞しており、美術界はこの4人で進めてきたのがわかる。

藤島は中国や韓国の服装をした日本女性を描いた。東洋とか西洋とかいう観念を撤回することが年来の藤島の主張だった。岡田は和服の女性を描いた。藤島は男性美、岡田は女性美という中沢弘光の対比もある。また「武二の剛に対して三郎助の柔」とも対比される。
この二人の関係は、親友というほどの近い関係ではなかった。反発することもなく、最も身近な画家同士という関係だたっとされているが、実際はどうだったのだろうと想像する。

藤島は、夢中になると休憩しなくなるから、葉巻を吸う習慣を持つことで体力の消耗を防いだと述懐している。

「油絵の筆触には、油絵の具を充分伸ばすだけの腕力」そして「腕力よりも一層腰の力が大事だ」と言うように、全身を使って絵を描いている。そして口癖は「もっと大きく見よ。大体に注意せよ」であった。

藤島は薩摩藩、岡田は佐賀藩の出身で、同時に西洋画を志、その志を遂げて、同時に第一回の文化勲章を受章しているのは面白い。まさに切磋琢磨する永遠のライバルだったということだろう。日本画の方の第一回文化勲章は、東京の横山大観と京都の竹内栖鳳が受賞しており、日本の近代美術界はこの4人で進めてきたのがわかる。