袖井林二郎「マッカーサーの二千日」(中公文庫)--65歳から71歳

袖井林二郎マッカーサーの二千日」(中公文庫)を読了。

マッカーサーの二千日 (中公文庫)

マッカーサーの二千日 (中公文庫)

日本の戦後の方向に決定的な影響を与えたマッカーサーの個性の分析と、占領政策とその効果についての記述が勉強になった。
以下、事実関係を中心に興味ある部分を解説する。

マッカーサー元帥が日本の占領政策の総責任者だったのは、65才から71歳の期間だった。
米国陸軍のトップである参謀総長を経て、フィリピンの軍事顧問であったマッカーサーは、日米の開戦まじかに、新設の米極東陸軍司令官に任命される。その後連合国最高司令官となって日米の戦いにようやく勝利したマッカーサーは日本の厚木飛行場にコーンパイプをくわえて降り立つ。その時点でも日本の陸軍は、関東平野だけでも二十二個師団30万人が完全武装で残っていた。そこへ丸腰で降り立ったのだ。
マッカーサーは、第一生命ビルに総司令部を置き、1年365日、土日も休むことなく仕事に全エネルギーを注いだ。

第一次大戦時、マッカーサー少佐は陸軍省に新設された広報部担当となり、新聞校閲係を経験する。後のマスメディアを自在に操る技術をこの時に獲得する。
38歳で准将、そしてウェストポイント士官学校の校長を経て、44歳の若さで史上最年少の少将に昇格、50歳では陸軍のトップである参謀総長に任命される。
しかし、陸軍でのキャリアはそこが天井であり、マッカーサーは縁のあったフィリピンで軍事顧問となるのだが、日米開戦で歴史に名を残すチャンスに恵まれたのだ。

マッカーサー天皇戦争責任を問う内外の声から護り、戦犯として起訴されることを防ぎ、そして天皇を通じて日本国民を支配した。それは将軍家の機能だった。
マッカーサーは、二千日の間に、日本の国民や指導者を前に公開の演説や放送をまったくしていない。マッカーサーは日本占領の期間を通じて、優れた部下に原理的な命令を与え、あとはすべて任せるという方針をとって成功したのである。

マッカーサーは陸軍の高官であった父親の見果てぬ夢を追いかけていて、「どうです、お父さん、私もやっているでしょう」と誇らしげに語りかけている姿を目撃されている。
また、彼は子供の頃から激しいマザー・コンプレックスの人だった。そのエピソードは多い。

「3年たつと、どんな軍事的占領もそれ自身の重みで崩れ始める」とよく語っていたそうだが、彼の統治期間は5年8か月に及んでいる。

1950年に起こった朝鮮半島での北朝鮮軍総攻撃の知らせをを受けて、70歳の彼は10年は若返ったという副官の報告がある。そして博打であった仁川上陸作戦は大成功をおさめ、ソウルを再び国連軍の支配下に戻した。大勝利をおさめる。しかし中国人民解放軍によって大敗北を喫し38度線の南に追いやられる。その後、押し戻し38度線に達する。この時、大統領の外交権を無視して共産軍司令官と会談する用意があるとの声明を発する。このためトルーマンマッカーサーを解任する。マッカーサーは解任後、わずか40日で日本を離れてしまう。

日本国民に圧倒的な尊敬の念を受けていたマッカーサーは、修身国賓のアイデアや、マッカーサー記念館の建設計画があったが、上院の軍事・外交合同委員会の証言で「日本人12歳論」を述べる。このことでそういう空気は急速に失われてしまう。
その時の正確な言葉は以下のとおりだ。
「科学・美術・宗教・文化などの発展からみて、アングロ・サクソンは45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれちほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である」

この発言だけで、「マッカーサー記念館」の建設計画がとん挫したのはいささか行き過ぎと感じてしまった。