「全集」第5巻。耳読。目読。出版講座。

セミナーを開催することも、クラウドファンディングのリターンとして「あり」です。

私も参加した小説「ジミー」のリターンの橘川さんの出版講座を顔出しをせずに聞く。20人ほどの参加でした。

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「全集」第5巻について近藤さんと打ち合わせ。

「耳読」で山本一力の小説を聴きながら、1万歩。

「読書」。佐高信の新しい「新書」を読みながらマーカーで印をつけていく。

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今日のヒント チェスター・ニミッツ『太平洋の試練(上)』(文春文庫)

わが海軍暮らしはじつに幸せに満ち、現職をなげうつような職業をわれほかに知らず。

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「名言との対話」2月24日。チェスター・ニミッツ「 東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ

チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア(英語: Chester William Nimitz, Sr.、1885年2月24日 - 1966年2月20日)は、アメリカ合衆国の軍人。元帥。

アメリテキサス州生まれのドイツ系アメリカ人。海軍兵学校卒業席次は114人中7番。 卒業後、1918年大西洋艦隊潜水艦部隊参謀長となり、以後、アジア艦隊旗艦オーガスタ艦長、海軍省航海局局長などを歴任する。第二次世界大戦中は、真珠湾攻撃の直後に太平洋艦隊司令長官となり、陸軍のマッカーサーと協力して対日本軍攻撃作戦を指揮し、アメリカの対日戦勝利に大きな役割を果たした。1944年には海軍元帥に就任、1945年東京湾における日本降伏の調印式はニミッツの戦艦ミズーリで行われた。19477年に退役した後は海軍長官の特別補佐官などを務めた。アメリカは 巨大空母に「ニミッツ」と名付けて生前の功績に報いた。(出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典についてなど)

イアン・トール著・村上和久訳『太平洋の試練 (上) 真珠湾からミッドウェイまで』(文春文庫。2013年単行本、2016年文庫版)を読んだ。第二部は『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで』も2016年に訳本が刊行された。第3部の完結編『太平洋の試練 レイテから終戦まで』は、2022年現在、予約受け付け中となっている。太平洋戦争を日米海軍の視点から徹底的に分析しており、アメリカの主要紙で大きな話題になった書である。

山本五十六についてはデトロイトの自動車工場とテキサスの油田をみていると書かれている。山本はアメリカの国力を知り、国内の強硬派を抑えようとしていた。しかし、ちょうど、本日のNHKの山本五十六を扱った番組では、個人としての信念と現実の太平洋艦隊司令長官としての矛盾は「変なものなり」と山本は記していた。山本の正しさは、皮肉なことに日本の敗北によって証明されたことになる。

アメリカ側の脚本である「オレンジ計画」では、日本は突然の攻撃で大勝利し、フィリピンやグアムだけでなくハワイまでも侵するだろうと想定していたのだが、それにもかかわらずアメリカは油断していた。奇襲攻撃で大損害を被ったキンメル太平洋司令長官は解任された。後任がニミッツである。

海軍の要職を経験済みのフランクリン・ルーズベルトは、ニミッツの人物をみる目を高く評価していた。太平洋艦隊司令長官にはニミッツも就任の打診があったが、若輩を理由に辞退している。真珠湾攻撃で失態を演じたキンメルにかわって、少将から中将を飛ばして大将に昇進させたニミッツが就任することになる。ニミッツは海軍の人事部門にいて、人的資本を育てることに才能があった。有能な人物を見出し、ふさわしい地位で仕事をさせることに秀でていた。統率力に磨きをかける人間派の軍人だった。

日本の真珠湾攻撃で、アメリカ海軍は1999名の戦死者と710名の負傷者を出し、太平洋戦域の3分の2の188機が撃破された。だが、燃料タンクが無事だったことは僥倖だった。破壊されてたら、回復には何年もかかっただろう。そして空母を踏む艦隊が海上で襲われたら、2万の将兵を失っていただろう。希望もあったのだ。ニミッツ楽天的な人だった。

ニミッツの最初の任務は、志気の回復であった。処罰は最小限にとどめ、スタッフはそのまま引き継いだことで、すばやくそれを実現した。部下の顔と名前、そして軍歴を知っていた。行政官、戦略家、指導者として卓越していた。日本軍の襲撃から、大艦巨砲主義を改め、空母と航空機の増強を図る学びの人だった。そして暗号を解読し、日本の意図を阻止していったのである。情報の価値をよく知っていた司令官だった。

次に、自尊心をとり戻すための作戦を断行し、陣容を整えて、日本軍を追い詰めていった。ニミッツは皇居への攻撃は絶対に行わず、日本降伏後の占領に支障が無いよう配慮している。虐待をしないことなど、軍律を厳しく守らせた。横須賀港に上陸し、9月2日には戦艦「ミズーリ」艦上での降伏調印式に合衆国代表として降伏調印の署名をする。

後に、ニミッツは日本との友好関係修復と尊敬する東郷平八郎関係施設の復興にも協力した。著書の印税は、東郷神社などに寄付されている。

戦時中「出てこい、ニミッツマッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし、、、」という歌が流行った。「比島決戦の歌」だが、西條八十作詞・古関裕而作曲だった。

東京原宿の東郷神社がある。日露戦争の救国の英雄東郷平八郎元帥をまつった神社だ。

東郷平八郎小伝--至誠の栄光』には、米国のニミッツ大将と東郷元帥との関係が知るしてあった。1905年、日露戦争凱旋観艦式にニミッツ少尉候補生。園遊会で東郷と短時間会談し、感銘を受け心の師とする。1940年、東郷元帥の国葬儀礼艦「オーガスタ」の艦長はニミッツ大佐であった。太平洋戦争中にニミッツ大将が米国太平洋艦隊司令長官として、日本海軍に勝利。1976年、テキサス州ニミッツセンターに、日本庭園を寄贈される。

陸軍のマッカーサーと海軍のニミッツは対照的だった。劇的演出を好むマッカーサーと、あたりさわりのない発言でメディアの支持が少なかったニミッツ。大統領候補になるなどの野心家であったマッカーサーと退役後も含めて目立った活動をしなかったニミッツマッカーサー回顧録を書いたが、ニミッツは当事者ではなく歴史家に任せ方がいいというニミッツ。日本人の間では圧倒的にマッカーサーが知られているが、ニミッツはもっと知られていいと思う。

この本を読む中で、海軍のキング大将との軋轢があったこと、そして陸軍と海軍との主導権争い、マッカーサーとの確執などの人間的ドラマがあったことを知った。日本の陸海軍の対立が敗戦を招いたとの評価もあるが、そういったことはアメリカにもあった。人間が集う組織ではどこにもある問題だ。しかしそれを当事者たちの努力でなんとか回避して、最終的な勝利をもぎ取ったのがアメリカだったの。

日露戦争の旗艦「三笠」の復元完成開艦式ではアメリカ代表は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれた肖像写真を持参している。ニミッツは、日露戦争の英雄・東郷平八郎から学び、また敵将・山本五十六から航空機の重要さを学んだ。ニミッツは学びの人である。海軍作戦史を執筆したサミュエル・モリソンは「ニミッツ提督は責任が増大するにつれて大人物に生長していく稀有な人物の一人であった」と評している。学びの姿勢が最強であることを教えてくれる。