南方熊楠は収集家?学者?思想家?正体はいまだ不明の人。筆写で記憶する学習法の人。

今日の日経には南方熊楠(1867年ー1941年。享年74)の特集記事。

  • 13歳の『和漢三才図会』あたりから筆写して記憶する学習法を身についていた。
  • 8年間のロンドン滞在中に大英博物館で、旅行記民俗学、人類学、博物学、性科学など東西の文献ざっと5000点を52冊のノートに筆写した。「ロンドン抜書」。
  • 1900年、33歳で帰国した故郷の和歌山では「甲子夜話」などの「田辺抜書」はノート61冊。「ネイチャー」には51篇、「ノーツ・アンド・クリエーズ」には324篇の論文を寄稿。
  • 62歳、昭和天皇に粘菌110種などを献上。
  • 田辺翻字の会、田辺抜書の会、南方熊楠研究会などが画像と文字情報のデータベース構築に奮闘中。(松土永知子学術研究員。居竜五竜谷大教授「20年かかる」)。
  • 鶴見和子「南方の独創性の根源は、かれの勉強好き、学校ぎらい、にある。かれは(中略)大学にいかなかったために、『専門バカ』になること・を、まぬかれた」(『南方熊楠
  • 松居竜五「人間が一生かけて何を知ることができるかの限界に挑戦し、学問の王様になりました」

熊楠は世界で一番字を多く書いた人といわれる。膨大なインプットに比べ、出版は3冊だけというようにオアウトプットは極めて少ない人だった。南方熊楠は優れた資料収集家か、視野の広い学者か、神羅万象の法則に挑んだ思想家か、正体はいまだにわからない。

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本日。

  • 「名言との対話」が、2016年1月1日から数えて本日で2900日に達した。
  • 大谷は予想通りドジャーズという王道の選択。10年7億ドル(1015億円)。
  • 多摩市立中央図書館。
  • 東亜樹(高1)の柔らかい歌声にしびれる。

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「名言との対話」12月10日。大山巌「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」

大山 巌(おおやま いわお、旧字体大山 巖天保13年10月10日1842年11月12日) - 大正5年(1916年12月10日)は、日本政治家

鹿児島出身。西郷隆盛の従弟。幼名は弥助。戊辰戦争に従軍、大山が設計した砲は弥助砲と呼ばれるほど優秀だった。会津戦争では山本八重に狙撃され負傷したといわれる。八重と一緒に籠城していた山川捨松は後に大山の後妻となる。維新後欧州に派遣され砲術を研究。西南戦争では西郷隆盛軍と戦った。このため生涯にわたり鹿児島には帰らなかった。日本陸軍の創設にあたり、陸軍卿を経て、初代陸軍大臣内大臣西南戦争では旅団司令官として西郷軍とたたかう。日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官をつとめた。陸軍大将、元帥。

「陸の大山、海の東郷」と称された薩摩閥のトップであったが、長州の山県有朋と違い、政治的野心はなく総理候補になることを警戒していた。このあたりは、親友だった西郷従道と同じ出処進退であった。国葬にはかつての敵国・ロシアの武官が丁寧な弔辞を読んでいる。

2023年1月に好天に誘われて、千鳥ヶ淵を散策したとき、子爵品川弥ニ郎卿像と騎馬姿の「元帥陸軍大将大山巌公像」をみたことがある。

「常識に富んでいた」「一個の君子人」「人を見るの慧眼」「人を見て任せる」「大海の如き大量の人物」「中正廉潔で少しの私心も持たない」「私党私派を作ることを絶対うっしない」「天下の大局に処する大智」「自ら処するに長じたり」「藩閥魂性などは微塵もない」「愚物のような性格で成功する人」。こういう人物胆で、大山巌の人柄、能力、志、などがわかる。

「今日もどこかでゆっさがごわすか」は、日露戦争の会戦で苦戦中で砲弾の音が聞こえる中に、昼寝から起きてきて、児玉源太郎に言った言葉である。殺気立った総司令部の面々はあっけにとられて雰囲気が和み、冷静になったというエピソードがある。悠揚迫らぬ器で、部下が心酔したと司馬遼太郎坂の上の雲』で目にした。帰国後に、「若い者を心配させないとして、知っていることでも知らん顔をしなければならなかった」と、息子に語った。

能力よりも人間に対する包容力があることが日本のリーダーの資格であった。部下に自由を与えるリーダー像である。大山巌は、西郷従道と同じく、威厳と仁徳型の日本人のリーダー像の一つの典型の代表的人物の一人であった。