「愛された金沢八景---楠山永雄コレクションの全貌」展(金沢文庫)

金沢文庫で開催されている「愛された金沢八景---楠山永雄コレクションの全貌」をみてきた。

 鎌倉時代には武士も勉強が必要になった。1275年(建治元年)頃に、北条実時がわが国最古の図書館として日本中の本を集め金沢の地に設けたのが金沢文庫である。金沢北条氏は北条氏の中でも勉強好きの一族であり、書物を愛し、学問を尊ぶ気風があった。宗教、政治、文学、歴史などの書物が集まった。

鎌倉幕府滅亡語の1333年には称名寺に書物の管理が移され、「金沢文庫」の墨印が押されるようになった。

1930年に大橋新太郎の尽力で神奈川県立の施設になり、1990年には中世の歴史博物館になた。現在、国宝3件、20865点、重要文化財3500点余を擁している。宗教関係では仏教典籍をはじめ、鎌倉時代の高僧の著作は1700点を数える。日蓮道元明恵、一遍、隆寛など。

コレクションとしては、兼好法師徒然草」関係、大森金五郎の蔵書である南牌文庫(国史関係4000冊)、明治憲法資料(和書152冊、洋書151冊)などがある。

 さて、金沢八景

金沢八景とは江戸初期に来朝した明国の僧・越禅師の漢詩で有名になった。能見堂からみる見事な風景を讃えた。

 「ぶらり金沢散歩道」は、楠山永雄(1931~2013)の2003年の著作である。

楠山永雄は、静岡県伊豆生まれで麻布獣医科大を卒業し、森永乳業に入社。消費者サービス部長、物流部長などを歴任する。40数年つとめた会社を1996年に退職。

赴任した九州の宮崎では1998年に「ぶらり宮崎散歩道を刊行。

「ぶらり金沢散歩道」を2003年に刊行する。退職後の66歳からホームページに毎月一篇ずつ書いて60ほどまとまった段階で本にした本だ。一日の訪問者は20人から始まり、3万人を超え、メール等で読者から励まされている。

釣り好きの転勤族であった楠山は東京勤務になると関東有数の沖釣り基地・金沢八景に注目し、この地に家を建てた。その後、大阪の古本市で古地図の絵図の中央にわが家が位置していたのを発見する。またその直後に、京都で広重の金沢八景版画「洲崎の晴風」に出会う。それがきっかけとなって、金沢の歴史資料の収集にはまっていく。

「金沢と名前のつく古いものなら何でも」集めた。その収集癖は、 広重から、伝説、湘南電鉄、京浜急行の切符までどんどん広がっていった。

2009年には「伊藤博文公と金沢別邸」も刊行している。

金沢の夏島別荘は明治憲法を起草した場所である。欧州歴訪後、夏島で3ヶ月余をかけて草案を起草した。井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎。夏島憲法とも呼ばれている。

また野島の金沢別邸は憲法発布から8年後に建てられた伊藤の別邸である。この別邸にはこ皇室、皇族、華族らが招かれている。

金沢区の文学と歴史愛好会会長もつとめた。

2009年には、金沢区民特別賞を受賞している。

2012年、金沢文庫特別展「金沢八景いま昔」でコレクションを展示。

2013年、死去。

楠山永雄の人生を眺めると、サラリーマン・コレクターの生き方がみえてくる。

実業に邁進しながら、余暇に自分の住む地のことを興味を持って調べる。

その持続が一つの小品になる。こういう人生も悪くない。

 

私も30代の後半に、この金沢八景で4年ほど暮らしたことがあった。しかしこの地の歴史につぃてはまったく知らなかった。

 

『名言との対話」」2月18日。高村光雲「芸術というものは、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ」

高村 光雲(たかむら こううん、1852年3月8日嘉永5年2月18日) - 1934年昭和9年)10月10日)は、日本の仏師彫刻家高村光太郎高村豊周は息子。

明治維新以後は、廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事は無くなり生活困窮したが、光雲は木彫に専念し、西洋の写実主義も取り入れ木彫を復活させた。東京美術学校の教授をつとめ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる功績があった。

代表作は上野恩賜公園西郷隆盛像、皇居前広場楠公像、東京国立博物館の老猿など。

本日横浜美術館の「篠山紀信 写真力」をみたが、その篠山紀信は人物写真では「仮面の上に仮面をつけることこそ、その人のリアリティを獲得することだと思っている」と語っている。そして「いや、(写真は)芸術よりももっと上にあるものでしょう、、写真はもっともっと大きなものです」と信じ現代を疾走する写真家・篠山紀信。嘘を承知で創るほうが、リアリティがでて本当になる。明治の木彫のトップ・高村光雲は同じことをいっている。