「2023年の計画」を作成。始動!

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「2023年の計画」を作成。2022年の総括をした上で、今年は「公人」「私人」「個人」、それぞれについてやるべきことを書き出した。「個人」については、「継続」「集大成」「新世界」に分けて記した。さて、始動。

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「名言との対話」の今年のテーマは「近代」とした。人選や資料などやや不安をもっての船出だった。1日から、銭屋五兵衛、宇田川玄真、千家尊福横井小楠セオドア・ルーズベルト宇野精一、8日の梅津美治郎までやってみた。なんとかやれそうだとの感触がある。渡辺京二の本から近代を生きた人物をあげて、亡くなった日付を調べたのでリストに加えてみたい。

命日:浦上玉堂10月10日。河井継之助10月1日。川路聖謨4月7日。清河八郎5月30日。司馬江漢11月19日。菅江真澄8月18日。高村光雲10月10日。根岸鎮衛12月4日。伴蒿蹊9月7日。本居太平10月23日。勝小吉10月9日。以下さらに調査。 中川延良? 成田狸庵(中津)?

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川柳6句。1万歩。HPの訪問者900越え。

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「名言との対話」1月9日。竹内綱「誘惑に陥らぬよう、これで俗念を断ち切れ」

竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日天保10年12月26日〉 - 1922年大正11年〉1月9日)は、日本武士土佐藩士)、実業家政治家

高知県宿毛市出身。宿毛領主伊賀氏の家臣として、イギリス軍艦との談判で問題を起こし切腹処分となるところ、後に許されている。戊辰 戦争では北越、奥羽を転戦した。

明治政府の官吏となったが上司と衝突し数年で辞職。1875年(明治8)には後藤象二郎高島炭鉱の経営にあたる。西南戦争では立志社挙兵計画に加わった罪で禁獄1年に処せられた。1881年自由党結成に参加。1887年、保安条例の適用を受け3年間、東京から退去を命ぜられる。このとき、横浜の吉田健三郎邸に身を寄せている。

1890年の第1回総選挙以来、高知県から衆議院に3回当選。土佐出身の長老として政党と藩閥・官僚との妥協調和に努め、政界に重きをなした。また財政手腕に富み、日清戦争後、1896年以降、朝鮮の京釜鉄道や京仁鉄道の経営に携わり実業界で活躍した。

竹内綱の経歴をながめると、切腹処分、監獄生活、東京からの退去命令など、血の気が多く、危ない橋を渡った豪の者であるという印象だ。1882年に板垣退助が岐阜で襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話は有名だが、その板垣を抱えたのが竹内であったという。因みに板垣を診たのが若き医者時代の後藤新平だった。

この人の名を私が知ったのは、吉田茂首相の父としてである。吉田茂にはエピソードが多い。吉田には3人の父がいた。それぞれに吉田らしいエピソードがある。

一人は養父の吉田健三郎だ。五男だった茂は裕福な実業家である吉田健三郎の養子になった。大宰相となった吉田茂は第一回の生存者受勲で大勲位菊花大綬章をもらった。そのとき、養父の墓前で「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして大勲位をいただきましたのでご勘弁ください」と報告している。使い果たした財産は現在の価値で数百億円だったと私は記憶している。

大久保利通の次男の牧野伸顕の娘を吉田はもらった。牧野は岳父である。牧野の娘婿である吉田茂は、ワシントン大使館に赴任した。若き吉田は東京から届く電信を受け取り、すぐに大使に渡すという単調で意味のない仕事に嫌気がさし、自分のように有能な人間を大事な仕事に使わないのは日本の損失だととして、 外交官を辞めると岳父の牧野に手紙を書く。

「お前はなんという大馬鹿ものだ。我以外みな師なりという言葉を、お前は忘れたのか」と叱責し、「大使よりも先にその電文を読むことができる立場にある。その廊下の間の何秒間で電文を見て、私ならどうするということをなぜ、考えないのか」と諭す。続けて「後で大使の行動を見て、自分の思ったことと違ったら、それがなぜかと考えてみる。そうやって勉強すればいいじゃないか。思ったとおりだったら、自分は大使並みだと喜べばいいじゃないか。こういう勉強ができる恵まれた立場にいるにもかかわらず、それを絶望したとは何事であるか」と返事をしている。

実父の竹内綱とのやりとりも面白い。外交官となった吉田が中国の奉天に赴任する際に竹内綱は、役人になると誘惑が多いからと関兼光の名刀を贈り、「俗念を断ち切れ」と諭した。当時の日本人の気風と竹内綱という人物の風韻を感じる逸話である。そして懇意であった奉天総領事への紹介状を持たせるが吉田は総領事に渡さず、帰国時の挨拶の際に手交した。総領事はなぜだと問い、吉田は「親の七光は嫌いです」と答えた。

こうやって3人の父とのエピソードで、吉田茂という人物の魅力がわかる。特に、実父の竹内綱が名刀を渡し、これで俗念を断ち切れと激励したという気概に打たれる。こういう親たちの教育が、日本の近代、現代で活躍する人物を育てたのであろう。