狩野亨吉。栗盛吉右衛門。山田定治。

狩野父子顕彰碑。

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  • 狩野良知「文政12年出羽国秋田郡大館町に生まる。 明治2年一家を挙げて本藩久保田に移り藩家老職軍事取調掛となり藩政改革に与かる。廃藩後秋田県の教育政務に従事し7年上京内務省地方局事務取扱を務め戸籍親族民籍の諸条例を立案17年内務省少書記官となり退官後は秋田育英会のため奔走した。 若年時の経世論なる三策は吉田松陰の心を動かし松下村塾で刊行された儒教的三道政治の理念を当代に発揮した論策である。外に志那教学史綱は24年刊行4年後上海で翻刻された。21年宇内平和策英和両文を発表す。教育経世の実務と精神を体し志の世界に存するを知る。39年12月没す(77歳)
  • 狩野亨吉は良知の次男慶応元年大館に生まる。明治9年出京。大学予備門当時に聴いた米人モノスの進化論は彼が生涯の思想方向を定めた。東大理学部に数学文学部に哲学を修め四高五高教授に歴任し31才にして第一高等学校校長に抜擢される。無為寡言生徒を化ししかも所信明確賞罰厳正内外の信望を受く。39年京大教授に任じ文学部長となり論理学を講ずること二年。辞任後東宮御教育掛。東北大学総長の推せんありしも受けず。自ら古本屋と称して古書を漁り東北大に図書を収むる事前後四回。志筑忠雄の星気説、関孝和和算、安藤昌益の自然真営道等邦人独自の学説を発見す。晩年甘んじて後輩と共同の 会社の債務を負う。終生独身宇宙理法の必然を信じて疑わなかった。昭和17年末東都雑司谷の陋港に没す。(77歳)。地天老木村泰然君夙に狩野父子を景仰して顕彰の志あり大館市有志之に賛じてここに碑を立て永く郷党の真人物真学者を伝えんとする。
  • 安部能成文 上月吉次書

この碑を建立した木村泰治。号地天・明治3年4月大館生まれ。台湾の産業開発の功労者、台湾商工会議所会長。大戦後は福島県岳温泉を開発。昭和36年2月死去。90才。父木村謙斎は大館城代侍医で安政蝦夷地警備にも従軍。ロシアの僧官ニコライとの交友があった。私立大館病院設立に奔走したが過労もあり明治16年2月21日死去。69才。

夏目漱石の親友で、漱石の死に際し友人代表で弔辞を誰がするかとなったとき、「やはり狩野だろう」という声があり、みな賛成したという。狩野亨吉は大人であった。この人のことももっと知りたい。

 栗盛教育団顕彰碑。 建立 平成三年三月 大館市

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正面刻銘「栗盛教育団顕彰碑  人をつくり 人につくす  渡部翠巌書」

文「財団法人栗盛教育団は、明治四三年(1910年)7月20日大館の富豪栗盛吉右衛門76才が私財を拠出して創設した育英事業団体である。以後養子鉄蔵孫倉松曾孫順吉とそれぞれを支える盟友たちによって引継がれ太平洋戦争後の昭和26年(1951年)12月15日に解散した。この41年間に恩恵を受けた大館北秋田の奨学生は百五十人以上を数え社会にの第一線で活躍した。栗盛家四代にわたる人づくりの軌跡は大館の誇りである。教育団事務所(後の市立栗盛記念図書館)のあったこの地に碑を建立し永く顕彰する。」

大館市立栗盛記念図書館では栗盛吉右衛門の事跡を説明している。寄付したのは金1万円と山林20余町歩である。

「余が身を飴売りより起こして能く、今日あるに至りしもの、実に母の賜物なり」

「才能があっても、資力が伴わない限り、その才能が発揮できなく成功は容易ではない」

 

秋田三鶏記念館(山田定治)。

国指定の天然記念物、声良鶏、比内鶏秋田県指定の天然記念物の金八鶏の三鶏を総称し秋田三鶏と呼ぶ。この三鶏の血統を守るために増殖を図り、県民が親しむためにつくられた記念館である。

この記念館できるには、山田定治(1898-1983年)という人物の一生があった。鶏の保存に一生をささげ、鶏博士と呼ばれた人だ。日本鶏の飼育を担当。戦中戦後の混乱期も保存、繁殖に尽力。県職員、大館鳳鳴館高校事務長。自宅内に山田記念館を設立した。それが現在の秋田三鶏記念館に結実した。こういう偉い人もいるのだ。

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「副学長日誌・志塾の風」170621

・人事委員会:教員採用

・学部運営委員会

・T-STudioで「名言との対話」を収録。今回は新著「偉人の命日366名言集」を題材にした。これで2本から4本くらいの分量か。

・小西先生

・趙先生

 

「名言との対話」6月21日。林子平「「親もなし妻なし子なし板木なし 金もなければ死にたくもなし」

林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日1738年8月6日) - 寛政5年6月21日1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。

小笠原諸島の発見の史実を書いた『三国通覧図説』がフランス語訳されていて、これが証拠となって日本領になったという。次いで畢生の大著『海国兵談』16巻を苦難の末に出版したが、この海防の思想は危険であるとされ幕府にとらえられ、板木は焼かれ、身は仙台で禁固となった。六無歌と呼ばれる「親もなし妻なし子なし板木なし 金ももなければ死にたくもなし」と詠み、六無斎と号した。

高山彦九郎蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と称せられた。似顔絵をみると、目が異様に大きく、変わった人だったろうなあと納得したことがある。奔放不羈、かつ憂国の至情あふれる人であった。

林子平は禁固となって1年後に没した。死後10余年、北辺にロシアの影があり、当時の世人は奔放不羈の人・林子平の先見の明をようやく知った。板木とは木版印刷に使う版木のことである。幕末の世に海防の必要を説いた『開国兵談』は出版してくれるところがなく、林子平自らの手彫りであった。その板木が焼かれたのであるから、その心境は察するにあまりある。