佐々木こうじさん(市会議員)の案内で大館を堪能した。
一日まわっただけだが、この大館は、歴史と人物の街だ。単独の歴史資源をきちんと説明し、時代順に巡る歴史・人物ツーリズムはいいと思う。友人から何もないと聞いていたが、なかなかどうして、歴史観光資源の宝庫だ。
大館神明社には、以下の神社や碑が存在。工の街。
金神神社:鍛冶屋職人の守護神。
松尾神社:酒造業の酒造りの神。
小林定修翁功徳碑:狩野亨吉書。
指物師の門人が建てた碑。
田中磯松翁こう徳碑:政治家
竹村吉右衛門(1900−1984年)。小樽高商、東京商大を卒業し、安田銀行。安田生命社長。故郷の大館に萩市の松下村塾を模した原寸大の建物を寄付。松陰神社など全国に7つある松下村塾の一つ。
田代の小幡勇二郎記念館。
小畑勇二郎。秋田県知事を6期、24年。
「亨けし命をうべないて」「人皆に美しき種子あり」「人よりもほんの少し多くの苦労 人よりもほんの少し多くの努力」「笑顔にまさる化粧なし」「昨日は夢 今日は可能性 明日は現実」「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」「君にほれ 仕事にほれて 土地にほれ」「私は鬼になる」、、、、。
在任24年「うぶすなの あめつち仰ぎ ひたぶるに 生きし日々 ありがときかな」
議会での最後の挨拶「もろともに 尽くし尽くして まもとなん 秋田のあがたの つづくかぎりは」
真田幸村の墓。
栗盛記念図書館。
栗盛吉右衛門。
「余が身を飴売りより起こして能く、今日あるに至りしもの、実に母の賜物である」
明治43年に、金1万円、山林20余町歩を基金とした「栗盛教育財団」を設立。46年間で150名に奨学金。
「才能があっても、資力が伴わない限り、その才能が発揮できなく成功は容易ではない」
狩野父子顕彰碑:
狩野良知:吉田松陰に「経世論三策」で影響を与えた。家老。内務権少書、、。
狩野亨吉:大館生まれ。一高校長。兄弟文学部長。
移築された大舘松下村塾。
吉田松陰「万巻の書を読む非ざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」
真崎勇助(1841生):18歳、古文書の収集と筆写を発願。それが生涯の仕事となる。菅江真澄著作46点、古文書2100点、考古学sh量6500点を収集。県史編纂に三角。秋田史談会。安藤和風「勇助には数百種の著作がある」
安藤昌益(?ー1614年)の資料コーナー。安藤昌益は狩野亨吉が発掘。
村木清一郎の村木文庫:旧大館中学、早稲田大英文科卒、時事通信記者、旧大館中教諭。会津八一が題字を書いた「訳万葉」を書く。30余年間かかった。
菅江真澄資料コーナー:秋田版から頼まれて領内の地誌を著す。多くの図絵を含まれているのが特徴。「日記」は旅先の経験を見せたり聞かせるためのもの。図絵修には鉱山の景色や石臼などの物品があがかれている。
横山児童公園。
横山助成先生記念碑。大館生まれ。帝国大学失業。内務省局長、6府県の知事・警視総監。貴族院議員。東北興業総裁。家族が基金を寄付し公園となった。石田博英が会の代表。
采女の碑;:髪結いの組合が昭和53年に60周年うぃ記念して建立。鎌倉時代文永年間に采女亮政之が下関で髪結の業を起こす。
桜櫓館。欅づくり。昭和初期の建物。
桜場文蔵邸。町長。桜の名所と三階の展望台の櫓から命名。安土城の天守閣を模した。
労働大臣をつとめた大館出身の石田博英が、この近くの狩野家を私邸としていたところが、石田ロズカーデンとなっている。
町田忠治功徳碑:狩野亨吉せん書
村木清一郎碑:歌。「訳万葉」。
上原敏碑。歌手。「妻恋道中」。ニューギニアで戦死。
秋田犬の保存会で秋田犬を見る。「秋田犬はやさしい」
県立のわんパーク。
古書店を見学。切り絵展。毎月テーマを変えて古書を販売。6月は「戦争と歴史」。
三鶏記念館
山田定治(明治31年--昭和58年)。保存に一生をささげ、鶏博士と呼ばれた。昭和7年頃から日本の鶏の飼育を担当。戦中戦後の混乱期も保存、繁殖に尽力。県職員、大館鳳鳴高校事務長。3種類も鶏は昭和12年から34年にそれぞれ天然記念物に指定された。山田の自宅内に山田記念館を設立、それが秋田三鶏記念館になった。
小林多喜二文学碑。プロレタリア文学史上最高の作家。1903年生まれ。小樽高商、拓銀。「蟹工船」「不在地主」。1933年に治安維持法で逮捕、獄死。30歳。
鳥潟会館。1600年から続く旧家。花岡村の肝煎。
京風の近代和風建築。回遊式日本庭園(8191ヘーベ)。
18世紀半ばに建築。1936年から5年かけて増改築と庭園の拡張。1000人を超える京都の大工、左官、造園師。花岡町に寄贈された。
鳥潟隆三(1877-1952年)医学博士。京都大学名誉教授。中学は大分中学。一高、京大。ベルン大学リュ学。日本外科学会会長。コクチゲンを発明。平圧開胸術を提唱。恩師の銀時計。享年75。
鳥潟右一(1883-1923年)。工学博士。大分中学。東京開成中学、一高、東大電気工学学科を首席で卒業。恩師の金時計。逓信省技手。英米留学。29歳、TKY式無線電話機を発明、世界で初めて無線に音声を載せた。大正4年、東京上海間の無線通信に成功し世界的に有名になった。33歳、工学博士。38歳、電気試験所長。41、没。
鳥潟小三吉(1842-1909年)。国際的軽業師。軽業修行、「小三吉一座」を率いて欧州で巡業。明治9年帰国し名声。1882年再び渡欧し国際的軽業師に。ドイツ皇帝に披露し勲章(メダル)をもらう。明治21年帰国し花岡に住む。享年63。妻のフンネエは明治29年に39歳で没。世界的曲芸師。
信正寺。
鳥潟隆三の墓
花岡平和祈念館: 花岡事件。中国人の強制労働。蜂起した中国人13名を殺人罪で処罰した事件はこの町。今でも遺族と慰霊祭を営む。
大館駅の忠犬ハチ公像。ハチ公の故郷。秋田犬の本場。上野英三郎博士。