鳥潟隆三・右一・小三吉。竹村吉右衛門。

多数の偉人を輩出した大館の鳥潟家の人々。鳥潟家は慶長年間(1600年代初め)の頃から続く旧家。花岡村の肝煎を代々つとめた。

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  • 鳥潟恒吉(1855-1914年)・鳥潟サイ(1862-1943年):恒吉は花岡生まれ。東大医学部二期卒業生。初代大分県立病院長を務め、大分県の医療の近代化、医師・看護婦の養成に貢献した。隆三・右一等甥たちを大分に呼び英才教育した。その後、サイ夫人が彼らを引率して上京し、東京の開成中学、旧制一高に通わせた。
  • 鳥潟隆三(1877-1952年)。日本の外科医学界の発展に貢献。京都帝国大学名誉教授、医学博士:函館生まれ。狩野亨吉の勧めで京都帝国大学京都医科大学に進学、恩賜の銀時計を授与され卒業した。血清細菌学を研究し、イムペジン学説を提唱。コクチゲン(鳥潟軟膏)創製の功績によりノーベル医学賞候補となったが惜しくも受賞は逃した。日本外科医学学会会長を2期務めた。
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  • 鳥潟右一(1883-1923年)。砿石検波器・TKY無線電話機の発明者。工学博士:花岡生まれ。東京帝国大学工科大学を首席で卒業、恩賜の金時計。郷里の花岡や小坂、尾去沢鉱山等から砿石を採集し、26歳の時、砿石検波器を発明した。無線電信の通信距離をそれまでの数十キロから1000キロへ格段に延ばした。その後TKY式無線電話機を発明し、世界で初めて無線に音声を乗せることに成功した。
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  • 鳥潟小三吉(1842-1909年)。世界で活躍した国際的軽業師:花岡生まれ。1866年外国の曲馬団に誘われ、他の芸人とともに英国に渡った。その後「鳥潟小三吉一座」を結成、欧州各地を巡業した。ドイツ人の妻フハンネエも一座で活躍した。ドイツでは皇帝に招かれ宮廷で妙技を披露、喝采を博し記念メダルを賜った。晩年は花岡(現鳥潟会館駐車場)に豪華な洋館を建てて暮らした。
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竹村吉右衛門(竹村記念公園・松下村塾

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  • 竹村吉右衛門:1900年(明治33年)10月11日大館市新町に生まる。幼名を理一郎。略称「竹菊」の大地主初代菊松の三男定吉の長男。吉右衛門の名はのち先代を襲名したもの。大館中学、小樽高商、東京帝大を経て安田銀行へ。日本貯蓄銀行専務、戦後に安田生命保険社長。生保協会副会長、経団連常任理事など生保事業を推進、財界活動にも貢献した。仏教に深く帰依し、浅草本堂の再建に深くかかわり、請われて日光輪王寺の信徒総代、仏教学術協会常任理事などをつとめ、仏教伝道功労賞を受ける。「仏教タイミス」の常連寄稿家であった。藍綬褒章、勲三等旭日中綬章。没後、勲二等瑞宝章。85歳で死去。松下村塾(模築)は大館鳳鳴館高等学校振興会により1984年に竣工。振興会顧問であった竹村吉右衛門鳳鳴高校創立85周年にあたり所有の土地の寄贈を行い、同氏念願の松下村塾の大館への模築がなった。「青年時代最も強い刺激を受けたのは吉田松陰であった」「安部能成先生の文になる、狩野良知、亨吉両先生のこう徳碑を読んで、、、わが郷土は松陰とは縁の浅からぬことを心に留めておった」「玉川学園の創立者故小原国芳先生は、早くから自校の校庭に松下村塾の模築をして子弟の教育の資にしておった、、」「自分の郷里にも、何とか模築したいものと秘かに考えるようになた、、」と模築を依頼する手紙に書いている。

図書館に移築された松下村塾には、吉田松陰の言葉が飾ってあった。

「万巻の書を読むに非ざるよりはいずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」

 

「副学長日誌・志塾の風」170620

・研究室で秘書と打ち合わせ

・高野課長

 

「名言との対話」6月20日。丸木位里「人間、腹が立つこと、これじゃいけんと思うこと、いっぱいあるでしょう。日々、それと闘うことで、死ぬまで生きていける。腹が立たなくなったら人間おしまい。生ける屍です」

丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は、日本画家。妻・丸木俊と共作の『原爆の図』が著名である。

長じて上京し、川端龍子に師事し、日本南画院、青龍社に参加。1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。原爆投下で広島に移住していた実家の家族の安否を気遣い、俊とともに救援活動を行い、この体験をもとに、俊と協働で『原爆の図』を発表するとともに絵本『ピカドン』を刊行し、以後、原爆をテーマとする絵画を描き続けた。

水墨の名手丸木位里と力強いデッサン家丸木俊の「原爆の図」美術館で、15部の屏風図の連作を観た。墨一色の画面に、必要に応じて紅を使う。アウシュビッツ南京大虐殺水俣原発三里塚などの図も展示されている。惨劇の迫力に感じ入る。

夫婦そろって1995年のノーベル平和賞候補に擬せられている。1996年には朝日賞を受賞。

「怒り」こそが生きるエネルギーだ。腹を立てよう!