午後、多摩。夕刻、湘南。

 

 

『千朝千言』のために、1月から2月にかけて、読まなければならない書物群。

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 「副学長日誌」1月9日。

多摩キャンパス

・研究室で秘書と打ち合わせ。スケジュール調整。

・杉田学部長:来年度人事

・山本さん:T=Studioの収録打ち合わせ

 

電話

・柴生田

・落合

・中澤

 

湘南キャンパス:学部運営委員会に陪席

・人事。離学率。入試。就職。、、、。

・英語の取り扱い。新カリキュラムの議論に参加。

 

終了後、弟と地鶏屋「鶴兵衛」で懇親。飲み放題だと安かった。

 

 

「名言との対話」1月9日。福井謙一自分のやりたい学問と距離のある学問であればあるほど、後になって創造的な仕事をする上で重要な意味をもってくる」

福井 謙一(ふくい けんいち、1918年10月4日 - 1998年1月9日)は、日本化学者京都大学京都工芸繊維大学名誉教授日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。

32歳、京都大学教授。33歳、フロンティア軌道理論を発表。52歳、京都大学工学部長。63歳、ノーベル化学賞文化勲章。63歳、定年退官後、京都工業繊維大学学長。71歳、学術審議会会長。

福井謙一は1981年にアジアで初のノーベル化学賞 を受賞した。1952年のフロンティア軌道理論発表以来29年後の1981年の受賞である。これは日本化学会120年の歴史上初めての快挙だった。

恩師の兒玉博士は福井を天才的秀才とが呼んでいるが、人物的にはエピソードがないというのが特長である。直感と計算の両方に強い科学者だった。選択には直感が重要というのが持論であった。科学的直感は、幼い頃から自然に親しむことによって養われると信じている。直感とは総合知、全体知のようなのを感じることなのだろうか。

創造的な仕事ができる第一の要件は、社会に創造性を尊重する気風が盛んでなくてはならない、と福井は言う。「チームワークは大事です。ただし、日本の基礎科学研究が世界に伍していくためには、もっと若い才能を突出させてやる環境づくりが必要です」と警鐘も鳴らしている。

「理論は理論家のひとりよがりのものであってはならず、実験家がそれを信頼して使っていくようなものでなければならない」。理論科学者からみた実験科学者との関係である。

時間と空間を媒介して、宇宙空間の全ては因果関係でつながっている」。これも目が覚めるめるような名言だ。これも「関係」である。

福井謙一には広い分野に関する旺盛な好奇心があった。学生時代は文学部での田辺元の哲学の講義を聴いた。11歳年長で日本人初のノーベル賞(物理学賞)を得た湯川秀樹西田幾多郎の哲学講義を聴いたのと同じだ。福井は他分野にも好奇心を持つことが創造に繋がると言っている。そして疲れるということがわからいとうほどの体力をもって、29年にわたり長い間執念深く自分のテーマを追い続けたのだ。

「参考:『ノーベル賞の周辺』(化学同人

 

ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風

ノーベル賞の周辺―福井謙一博士と京都大学の自由な学風