新著の前書き。

人生100年時代が到来しつつある。日本では「百寿者」というが、欧米では一世紀を生き抜いたという意味で「センテナリアン」と呼んでいる。この時代をリスクととらえる風潮が多いが、私は千載一遇のチャンスとみるべきだと思っている。

人生80年時代といわれた頃から「志学・而立・不惑知命耳順従心」という孔子の人生訓から脱却し、超高齢時代にふさわしい人生の考え方を私は提唱してきた。人生50年時代を1.6倍すると、志学は26歳、而立は48歳、不惑は64歳、知命は80歳、耳順は96歳、従心は112歳となる。26歳から48歳が青年期、48歳から64歳が壮年期、64歳から80歳が実年期、80歳から96歳が熟年期、96歳から112歳が大人期、それ以降125歳までは仙人期と考えたらいい。人生100時代と言われるようになってようやくこの考え方を納得してもらえるようになったのではないか。20代半ばから80歳まで、青年期と壮年期と実年期とあわせて3つのキャリアを持てる時代になったし、その後も3期あるのだ。

さて、2018年6月7日に私が毎日書き続けているブログ「今日も生涯の一日なり」が5000日を迎えた。このブログでその日が命日と誕生日の偉人を対象に、心に響いた言葉と人生の軌跡と私の感慨を記すという修行を2016年、2017年に行った。その中から90歳以上の地平に立った人々を抜き出したのが本書である。

また、2005年から始めた「人物記念館の旅」は、すでに800館を超えてライフワークとなってきたが、「偉い人」の条件が自分なりにわかってきた。それは影響力ということである。深く、広く、そして長く影響を与える人が偉い人だ。彼らの共通項は7つある。「仰ぎ見る師匠の存在」「敵との切磋、友との琢磨」「持続する志」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」である。その分類ごとに高齢順に並べている。107歳と最高齢平櫛田中を含め、訪問した記念館やそこで入手した資料や書籍から拾った言葉を使っているから、知られていない名言も多いはずだ。

百寿者は2050年には53万人になるとの予測はあるが、現在ではまだ7万人であり数は多くないので、この本では90歳以上の人を取り上げることにした。「平成」の次の時代が見えている今、超高齢化時代を生きる読者に耳を傾けていただければ幸いだ。

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「名言との対話(平成命日編)」5月29日。新藤兼人「私は仕事をして生きてきた。その仕事の中に私自身が含まれていると私は思います。仕事とは、私であり続けること、私とは何かを考え続けることなんです」

新藤 兼人(しんどう かねと、1912年明治45年)4月22日 - 2012年平成24年)5月29日)は、日本映画監督脚本家1997年文化功労者2002年文化勲章。

1933年徴兵検査が終わった頃、「すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った」。

33歳、1945年秋に書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年キネマ旬報ベストテン4位となり初めて脚本家として実力が認められた。その後、シナリオライターとして活躍。

1949年に独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を設立した。1951年、『愛妻物語』(乙羽信子主演)で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。遅咲きの監督だ。1952年原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。この頃、主演の乙羽根信子と愛人関係となる。

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。1960年『裸の島』を制作し、1961年モスクワ国際映画祭でグランプリを獲る。

出生した〈広島〉と〈性と人間〉に固執し、手がけた脚本は370本にもおよび多くの賞を受賞した。監督に加え、脚本家、プロデューサー、経営者、教育者、著述者など多彩な活動を行った。1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚。

近代映画協会1960年代に100近くあった独立プロのうち唯一成功し、現在も存続、映画作品を送り出している。日本のインディペンデント映画の先駆者であり多くの門下生を育てた新藤監督の業績を讃えた新人監督のための「新藤兼人賞」がある。

100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。2012年5月29日老衰のため東京都港区の自宅で亡くなった]。満100歳であった。

「自分は世界で唯一の貴重な存在なんだと考えることが大切なんです」という新藤は「私の財産は、挫折なんです」というほど挫折が多かったが、それを財産として成長を遂げた。新藤は、映画人という天職に70年以上の期間を費やした。それは自己発見と自分づくりの100年におよぶ仕事人生であったのだ。「人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ」。残した作品には永遠の命があり、新藤兼人は死んではいない。