ペトロ・カスイ岐部記念公園(大分県国東市)ーー「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」

8月上旬に大分県国東市に「ペテロ・岐部・カスイ」の公園を訪ねた。

ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年(天正15年) - 1639年7月4日(寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教カトリック)の司祭である。

f:id:k-hisatune:20210811212917j:image

司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。

f:id:k-hisatune:20210811212913j:image

マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、そこから岐部は1人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。ホルムズ、バグダードを経て、日本人としてはじめてエルサレム入りを果たし、その後にローマにたどりついた。32歳で司祭に叙階された。1623年、20人のイエズス会士とともに、インドを目指す旅に出る。喜望峰を回り、1624年ゴアにたどりついた。

1630年にマニラから日本に向かう船に乗り込むことに成功。難破しながらも何とか薩摩の坊津に到着した。日本を出てから16年ぶりの帰国であった。

岐部は潜伏し、長崎から東北へ向かいつつ、信徒たちを励まし、仙台でキリシタンの家にかくまわれる。1639年に密告され逮捕された。江戸に送られ、すでに棄教していた沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)と対面すると逆に彼に信仰に戻るよう薦めた。岐部は激しい拷問を受けても棄教せず、最後は、浅草待乳山聖天近くの明地で穴吊りにされた。そのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、1639年7月4日に腹を火で炙られ殺された。52歳没。

同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年にカトリック教会の福者に列せられた。

出生の地である大分県国東市国見町岐部には、ペトロ・カスイ岐部記念公園があり、井上筑後守政重と捕縛されたペトロ・カスイ岐部神父の像、ペトロ・カスイ岐部の像が建てられている。

f:id:k-hisatune:20210811212848j:image

「春になると梨の花が咲き、穏やかな海にかこまれたまるい小さなこの半島には、今日でも国東仏教と言われる独特の山岳仏教の寺々がある」。これは、殉教に生きた日本人の姿を書いた遠藤周作の「銃と十字架」に出てくるペトロ・カスイ岐部の出身地にかかわる記述の一節だ。岐部城のあった城山の麓に位置し、そばには岐部川が流れており、この公園に隣接して、小さな聖堂が建てられている。

f:id:k-hisatune:20210811212902j:image

f:id:k-hisatune:20210811212855j:image

1967年から毎年秋には、ここで「岐部殉教祭」が行われている。

f:id:k-hisatune:20210811212858j:image

 JAL時代に、大分県人会を一緒に運営した年上の岐部という部長がいた。この人はペトロ岐部の後裔だった。

 f:id:k-hisatune:20210811212851j:image

残念ながら資料館は休みだった。

f:id:k-hisatune:20210811212908j:image

----------------------

「名言との対話」8月11日。岸恵子「身が持たないほどの仕事があるとわたしは生き生きとする。何もすることがない状態はわたしを腑抜けのように虚しくする」

岸 惠子(きし けいこ、1932年8月11日 - )は、女優・文筆家。

神奈川県出身。1951年松竹から「我が家は楽し」で映画デビュー。1953年「君の名は」で人気スターになる。1957年渡仏し映画監督イブ=シャンピと結婚。「おとうと」「細雪」などの映画,「修羅の旅して」などのテレビドラマに出演。1975年離婚後もフランスと日本で活躍。2011年フランス芸術文化勲章コマンドールを受章。著作に「巴里の空はあかね雲」、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した「ベラルーシの林檎」などがある。

岸惠子『わりなき恋』( 幻冬舎)を読んでいる。大女優・岸恵子(80歳)の10年ぶりの話題の小説だ。
孤独と自由を謳歌する、国際的なドキュメンタリー作家・伊奈笙子、69歳。秒刻みのスケジュールに追われる、大企業のトップマネジメント・九鬼兼太、58歳。この二人の大人の恋愛を描いた作品。70歳を迎える女性の恋愛心理と情事の場面はよく描かれている。

 以下、メディアのインタビューで語られた岸恵子の言葉から。

「苦労話として思い出すより、蓄積されて今日の自分になったと思う方がいい」

「人生の終盤に虹が立つような華やぎがあってもいいんじゃない?」

「私は若く見えているんじゃなくて、気持ちが若く老いて見えないだけ」

「友達は女が一人、男が一人居れば十分ということです」

「孤独の裏には自由があり、自由の裏には孤独がある」

2021年5月発刊の『岸恵子自伝』(岩波書店)を読んだ。

「戦争体験、女優デビュー、人気絶頂期の国際結婚、医師・映画監督である夫イヴ・シァンピと過ごした日々、娘デルフィーヌの逞しい成長への歓びと哀しみ……。その馥郁たる人生を、川端康成市川崑ら文化人・映画人たちとの交流や、中東・アフリカで敢行した苛酷な取材経験なども織り交ぜ、綴る。円熟の筆が紡ぎ出す渾身の自伝」との解説がある。

「身が持たないほどの仕事があるとわたしは生き生きとする。何もすることがない状態はわたしを腑抜けのように虚しくする」。その代償は、離婚であり、娘との悲しい関係であり、「仕事になりすぎて、この世界で一番大事な娘を、ほったらかしにした不埒な母親であったことに気づいて愕然とした」との悔恨になる。

 岸恵子は現在89歳か。私のいう熟年期の初めの80歳で初めての恋物語「わりなき恋」を書き、今度は自伝を書いたことになる。熟年期(80歳から)の仕事を年譜で調べてみる。81歳、吉永小百合との共著「歩いて行く二人」(世界文化社)を刊行。82歳自ら演出した朗読劇「わりなき恋」に出演。84歳m「愛のかたち」(文芸春秋)より刊行、菊池寛賞受賞。86歳、「孤独という道づれ」(幻冬舎)を刊行、フランス文化賞を受賞。88歳、日経新聞私の履歴書」を執筆。そして89歳、「岸恵子自伝」の出版となる。

この本の「終りに」には、「高齢にもかかわらず、まだやりたいことが山ほどある、我武者羅なわたしの生きかた」と記している。この人が熟年期を過ぎて、95歳からの「大人期」をいかに過ごすのか、見届けたい。