着るコタツ

書斎:知研総会案内を含む「知研フォーラム」臨時号の編集作業。八木さんと相談。

都心:仙台からみえた税理士事務所と保険会社の二人と会う。コロナ騒ぎで確定申告が4月中旬までのびたことで一息ついていた。

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 「名言との対話」2月28日。辰野隆「いくら読んでもあまり利口にもならない書物を、畢竟、忘れる為に読みます」

辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年2月28日)は、フランス文学者随筆家

名随筆家の名を欲しいままにした辰野の随想集『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫)は、自伝的要素も多く、読み手は文豪たちへの実感的文章が楽しめる名随筆だ。エッセイ文学の画期的随筆である。私も読みながら、人物描写のうまさに舌をまいた。このような人物描写のあるエッセイを書きたいものだと思う。

帝大の名総長浜尾新。春風駘蕩、温情。人格の香り。尽忠の君子。訥弁。端然として大仏の如く。易らぬ挨拶。唯生きて居られるだけで、僕等後進は何か清いもの、温かいものを感得。三宅雪嶺先生。高潔にして温雅な顔。仙味に充ちた先生。達人とは斯くの如き仁。綽綽として天命を楽しむ温容と、天下一品の吃吃たる日本語。いずれも両先生の人格に対する尊敬と愛情が、伝わってくる。

露伴、鴎外、漱石は、辰野隆にとって文学の三尊である。これに谷崎を加えて近代文学の四天王だとしている。

まず露伴。文豪。碩学。大通。達人。不羈。蟇仙人。豪傑。氷山のように喫水が深く。筆を援いて千万言たちどころに成る。咳唾玉を成す。体験を重んずる。次に鴎外。官僚と巨匠。そして漱石については小説を通して多くを語っている。卓見と話術の妙。人間夏目金之助。類型を脱して典型に迫る作品。最後は友人・谷崎潤一郎。明朗、鷹揚。秀才。異常な才能。「われにバイロンの詩才なく うたよむ術もなかりけり きみラファエロの画才もtで えがける筆にひかりあり、、」は中学時代の詩。叙事詩作者的手腕。

父は東京駅、日銀本店など日本の近代建築に多大な業績を残した建築家の辰野金吾である。父の金吾は「俺は頭がよくない。だから人が一するときは二倍努力してきた」と隆に語っていた。その隆はその息子の明にも語ったいる。努力は辰野家の家風となっていいったようだ。

この本の最後に本人の日常がみえる小エッセイが二本ある。「父の書斎」では、書斎生活を慕っていたが、ならなかった父の姿を描いている。「自分は一度でも秀才であった例はしはない。然し如何なる秀才も自分ほど勉強家ではなかった。秀才が一度聞いて覚えることは自分は十度訊ね、二十度質して覚えた。貴様たちもその意気で勉強しろ」といつも言われたそうだ。続く「私の書斎」ではというわずか一頁のエッセイでは、春秋秋に椅子で居眠り、冬はこたつの上にもたれてうつらうつら。のらりくらりとやっているとし、「僕の書斎は、大成功だと思います」と結んでいる。

私がこの文章を書いている姿はどうか。最近、「着るコタツ」という商品を手に入れた。足から腰までを覆うのだが、足元と腰の付近に暖がセットできる構造になっている優れものだ。90分にセットしておくと、毎朝ブログを書き終える頃まで暖かく、調子が良い。

辰野隆は 東大での教え子から、三好達治渡辺一夫伊吹武彦小林秀雄今日出海中島健蔵中村光夫森有正ら、文学研究・文芸評論で活躍した多数の俊秀を育てたことは特筆に値する。東大での最終講義で、小林秀雄は「先生は理想的な教師であった」と感謝の辞を述べている。『忘れ得ぬ人々』最後の「人と作品」では、教え子の中平解が「春風を漂わせておられたのが忘れられない。先生は一種の巨人であった」と結んでいる。辰野隆露伴、鴎外というよりも、漱石のごとき人だった人ではないだろうか。包容力、春風。人間辰野隆である。

忘れ得ぬ人々 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)