神奈川近代文学館で「江藤淳展」をみる。

神奈川近代文学館で「江藤淳展」をみる。

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近代日本の先駆者の評伝、史伝、GHQ占領史などを手掛けた論客。1982年以来、当財団の理事をつとめたこともあり、没後20年を期して企画展を開催した。

1932年(昭和7年)誕生。少年時代と晩年に鎌倉に住んだ。21歳、慶應義塾大学文学部に入学。22歳、自殺未遂。

23歳、三田文学に『夏目漱石』を書いて文壇デビュー。本名は江頭淳夫、ここからペンネームを江藤淳とした。『夏目漱石『』(下)は後の妻・三浦慶子(1933-1998)が清書。ピョンヤンで母子で収容所に入れられ、脱出し、米軍に保護されるという体験を持つ。

25歳、大学院にすすむ。三浦慶子と結婚。

26歳、1958年、「若い日本の会」を石原慎太郎大江健三郎らと結成。『奴隷の思想を排す』(文芸春秋新社)を書く。学生の身分で商業雑誌に寄稿することが問題となり、退学勧告がでる。授業料は払うが、1年間授業には出ない。

27歳、1959年、『作家は行動する』(講談社。装丁は石原慎太郎)を書き、予定通り自主退学。1961年、29歳『小林秀雄』(講談社)。

30歳、ロックフェラー財団研究員として夫婦で渡米。『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞。31歳、プリンストン大学客員助教授となり、日本文学史を講義。「アメリカと私」。「私が東京の生活の中では意識の底にかくされていた自分をとり戻すにつれ、私は遂に米国の社会に、より深くうけいれられはじめたのである」。

35歳、『江藤淳著作集』全6巻。

38歳、『漱石とその時代』第1部、第2部刊行。菊池寛賞野間文芸賞

39歳、東京工大助教授。41歳、教授。

41歳、『江藤淳著作集 続』全5巻。42歳、『江藤淳全対話』全4巻。

43歳、慶應義塾大学に学位申請し、文学博士号を取得。

44歳、1976年、『海は甦る』全5巻(1983年まで)

50歳、鎌倉に転居。

52歳、『新編江藤淳文学全集』全5巻(1985年まで)。

59歳、慶應義塾大学環境情報学部教授。

61歳、『漱石とその時代』第3部。

64歳、大正大学大学院教授。

66歳、妻・慶子死去。1999年、自殺。享年66.『漱石とその時代』第5部(未完)。

福沢諭吉の文体」。「特徴は著者の肉声が聞こえる文体にある」。福沢諭吉「学問のススメ」が座右の書。「心身を労して私立の生計を為す者は、他人の財に依らざる独立なり」に共鳴し、たびたび引用した。江藤淳の原稿には書き直しがない。「漱石とその時代」がライフワーク。38歳から66歳までの28年間。全5巻(最後の巻は未完)。

日本の有識者は、「無条件降伏ではなく、有条件降伏と考え、保証占領、先例を発見するに苦しむ新種の占領と考えていたこと」を発見する。

書斎が再現、座り机。座布団が2枚。論文は万年筆、エッセイは鉛筆。

遺書「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う。諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳

河出書房新社江藤淳』、『海舟余波』を購入。

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大佛次郎文学館をのぞく。漫画「ヨコハマ物語」を描いた「大和和紀」展をやっていた。

大佛次郎の全著作の棚。800冊を超えていた。

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書斎。

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大佛次郎『旅の誘い』を購入。

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いったん、自宅に戻る。

夜は18時から22時まで、幼馴染の樋口裕一さんと町田の「テラ マジカ」で食事をしながら近況交換。帰りの南大沢駅で柏原さんに遭遇。

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 「名言との対話」6月18日。氏原暉男「ソバを知り、ソバを生かす」

氏原 暉男(うじはら・あきお 1934年ーー2013年6月18日)は、そば研究者。

1960年、京都大学大学院修士課程修了後、京都大学助手、科学技術庁放射線医学部総合研究所客員研究員などを経て、1967年に信州大学助教授。ソバの栽培、品種改良の研究に専念する。1983年に信州大学教授となり、同大学高冷地農業実験実習施設長などを歴任。

1992年、世界そば博覧会を開催し、世界10カ国から参加があった。一ヶ月の開催期間に14万人が訪れた。総事業費6.7憶円電話黒字になった。1995年には第6回国際ソバシンポジウムを信州大学で開催し、世界26ヵ国から70人が参加した。

1999年の退官直後に国際協力事業団長期専門化としてミャンマーの中国国境地域の麻薬撲滅計画に従事する。ケシ畑をそばに換えるプロジェクトだ「。2003年に任期を終了。

2005年、NPOアジア麻薬・貧困撲滅協会を立ち上げて理事長となる。全国麺類文化地域間交流推進協議会顧問、長野県そば工業技術研究会顧問としても活躍した。

蕎麦という文字は、実に角ばった3つの稜がある形状に由来している。「蕎」にはそそり立つという意味がある。そそりたった麦、そばだつ麦である。ソバという穀物は、成長が早く、農薬不要など手間がかからない、吸収能力が高くやせ地でも育つという特徴がある。挽き立て、打ち立て、ゆでたての「三立て」がうまく食べるコツだそうだ。私はずっと秩父の「こいけ」のソバのファンであった。日本最高の味のこの店は今はない。

氏原は農水省に4品種を新品種登録している。10年がかりで開発した信州大そば、赤い花を咲かせる高峯ルビー、赤い実をつけるグレートルビー、ルチンの含有量が多いサンルチンである。ソバ学を極めたソバ博士の氏原暉男は、ソバの遺伝・育種学の研究から、ソバの栽培、品種改良から始まって、長野県戸隠村福島県山都町広島県豊平町、北海道幌加内町、長野県飯田市、長野県松本市、など国内各地の地域づくりに関与した。そして、ミャンマー、ネパール、タイ、中国、モンゴル、インド、カナダなどの国際地域おこしにまで力を貸している。研究者として、ソバを知るだけでなく、成果を携えてソバを生かす一筋の道を歩んだ。その情熱とロマには頭がさがる。

 

ソバを知り、ソバを生かす

ソバを知り、ソバを生かす