博多・新横浜の新幹線で自宅へ。五木寛之、上野千鶴子、相田みつを。

昨日は山陽新幹線が止まったこともあり、本日の新幹線の予約は満杯でできない。とりあえず、中津から博多に向かう。朝7時に臨時便が出たこともあり、一便をやり過ごしたら10時36分の自由席に座れた。やはりこんでいるので、自由に動けないこともあり、昼食もとれない。名古屋になってようやく席が空いてきた。5時間の長道中。

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今日の収穫

・新横浜で久しぶりに日刊ゲンダイを手にしたら、五木寛之の連載「流されゆく日々」が目にとまった。「原稿用紙が消える日」というテーマの文章。この連載は3枚弱だそうだが、30年、10715回続いている。手書きだそうだ。この連載だけでも万日だから、五木寛之は鍛錬の「錬」だろうか。その境地に達しているのだろう。

橋本駅の本屋で上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書)を購入。「はじめに」と「あとがき」を読んでみた。「勉強(しいてつとめる)ではなく、学問(まなんで問う)ことが必要です。、、まだ答えのない問いを立て、みずからその問いに答えなければなりません。それが研究(問いをきわめる)というものです」。「情報も料理も、消費者よりも生産者のほうがえらい! とわたしは断言します」。「ひとが答えのない問いに立ち向かうための、だれにでもわかり、どこでも通用するノウハウです」「高等教育の価値は、知識を得るために「あるのではなく、いかにして知識を生産するかというメタ知識を得ることにあります」、、、。 

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

 ・「技術で人を感心させることはできるが、感動させることはできない」(相田みつを

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「名言との対話」8月16日。茂木啓三郎「健全な思想と厳しい倫理観をもち、その厳しさに耐えながら、なおかつ健全に運営することこそが経営者の使命である」

二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家

成東中学を経て、1926年に東京商科大学を卒業し、野田醤油に入社。入社後まもなく、労働争議を解決する。先代茂木啓三郎の養子となり、1962年から1974年まで社長をつとめた。アメリカ合衆国に工場を建設するなど醤油事業を海外で成功させ、業容を拡大し、個人醸造家の集合体であった企業を近代化し業界のトップにした。キッコーマン中興の祖である。

以下、茂木の考え方。 「損をしないことが大きな儲けである」「各自が蓄財のことをよく考え、常に不時の場合に備えよ」「人として守るべき道徳は本なり、財は末なり。この本末を忘れてはならない」「私費を割いて公共事業に取り組め。しかし身分不相応の事をしてはならない」

中興の祖に関する本を何冊か読んだことがある。幕府、藩、企業などの中興の祖の業績をみたが、「志と人事に尽きる」との感想を持った。

童門冬二『中興の祖の研究』(PHP)で中興の祖をあげてみる。徳川吉宗の「享保の改革」では食糧増産による少子化対策が成功し人口増加は522万人。細川重賢(熊本藩主)は目標・方法を明確にし人材登用をんはかった。毛利重就(長州藩主)は長州士民の救済という目的でまい進した。松平頼恭(高松藩主)は自主的にテーマを設定し、その研究をおさおさ怠らない人物を登用した。中上川彦次郎(三井)は有為の青年を次々と採用した。土光敏夫東芝)は「社員はこれまでの三倍頭を使え。重役は十倍働け。自分はそれ以上働く」として業績を回復させた。いずれも言行が一致している。

 

茂木啓三郎は養子である。初代茂木啓三郎については「非常に進歩的な人で、新しい技術をどんどんとりいれた。その上これらの技術をすべて公開」し醤油業界の発展を志したとして尊敬していた。危機に陥った時、養子が立て直すというケースが多い。見込まれて養子になった人は、創業の志、伝統、そして危機に至った原因をよく勉強し、その上で自らの責務を自覚して、ことにあたるケースが多い。江戸時代から盛んであった養子制度は、ある時代のもっとも優秀な人物を経営の任にあたらせることで、組織を生き延びさせる工夫であった。それは近代企業の仕組みと同じであり、日本がいち早く近代化に成功した要因だった。

日本的経営がもてはやされた時代に、醤油の国際化の物語の本を読んだことがある。そのリーダーがこの人だったのだ。養子の茂木啓三郎は「経営の究極の目的は国家の繁栄、国民の幸福の増進でなければならない。この産業魂を忘れてはならない」とし、その上で経営者の使命を高らかに語っている。