多摩大大学院(社会人大学院)の修士論文審査会ーー現代日本の課題がみえる

朝8時半から品川で多摩大大学院の修士論文審査会に出席しました。

徳岡先生と一緒に6人の院生の実践知論文を読み、発表を聞く。

日本人社会人は、ルール形成、ライフシフト、メディカルコミュニケーションという今日的なテーマだった。日本の企業の最前線の問題がよくわかった。

外国人は、中国のホテル・旅館経営、日韓の青年交流がテーマであり、中国、韓国の現状とその中で挑戦している姿をよく理解できた。

終了後、昼食を食べながら、金先生、久保田先生、浜田先生、今泉先生、バートル先生と言葉を交わす。教授会の審査発表では、感慨を発言する。

他の5室のテーマのキーワードは以下であるが、現代日本の課題と企業の問題がすべて見えるような気がした。

地域づくり。モンゴル。子どもの貧困。中国山西省。動物看護師。長寿企業。生体ドナー。中国の高齢者問題。弱さのデザイン。中東・アフリカ。ユニクロ。介護。先端技術。中国湖北省サプライチェーン。グリーン開発。デザイン思考。ガテン業界。ウェルネスワーケーション。ビヨンド・コロナ。上司部下関係。健康経営。信金。コミュニティ活性化。地方創生。漢方。フィットネスクラブ。知的障碍者雇用。データドリブン経営。正義。

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六本木ヒルズで美術展をのぞく。

  • 楳田かずを大美術展。若いファンが多かった。図録が間に合っていなかったので、「楳図かずを特集」をテーマとした『芸術新潮』を買う。f:id:k-hisatune:20220205215825j:image
  • 森アーツ美術館「ボストン美術館所蔵 THE HEROES 刀剣X浮世絵ー武者たちの物語」展。ボストン美術館は50万点の美術品があり、有名な日本美術コレクションは10万点で、そのうち浮世絵は5万点、刀剣は600口で、世界トップクラスの量と質を誇っている。この美術展では、浮世絵の武者絵118点(日本初出展)、刀の鍔27点、名刀20口が展示されていた。

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今日のヒント 養老孟司 ユーチューブ

世界は二つある。人間の世界と自然の世界だ。人間の世界で不幸であるなら、逃げる場所として自然があることを忘れないように。自然を見ていれば、自分をとりまく人間関係なんては小さいと感じる。

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1万歩。

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夜は深呼吸学部の講義に参加。

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「名言との対話」2月5日。鈴木與平(6代目)「婿養子」

鈴木 與平(すずき よへい、1883年明治16年)2月5日 - 1940年昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本実業家政治家 

静岡県静岡市清水区生まれ。東京高商在学中に、鈴木家の婿養子となる。卒業後10年ほどたった1917年に家督を相続し鈴木與平の名を継いだ。

1919年、静岡県会議員。日本郵船等を経て、家業である鈴木與平商店を経営する。1936年、鈴与商店を設立。清水商工会議所をはじめ、倉庫、塩業、運送、機械等、次々と新会社を設立した。

公職では、清水市議会議長、静岡県会議長、清水商工会議会頭などを歴任した。1939年には多額納税者として貴族院議員に互選されている。

清水市を土台に静岡県の産業を牽引した鈴木與平は、創業者の名前を継いだ6代目である。江戸時代の1801年(享和元年)に鈴木與平という人物が回漕業・播磨屋をはじめた。それが200年後の現在も存続しているということになる。この婿養子を選んだことは鈴木家にとっては大成功だった。

ところで、この「名言との対話」で、近代を中心に人物たちの足跡を追っていると、「養子」という言葉によくでくわす。日本では「養子」が多かった。シャープ2代目の佐伯旭は早川徳次の養子。九谷焼の徳田八十吉も養子。キッコーマンの茂木啓三郎も養子。吉田茂は横浜の貿易商の養子。斎藤茂吉は斎藤病院の養子。平櫛田中は実家の田中を名前につけている。高橋是清青木周蔵湯川秀樹、、。夏目漱石も養子に出さたことがある。

「婿養子」ということも多くあった。横浜の生糸貿易商・原三渓(富太郎)。富士屋ホテルを大きく発展させた山口正造。日本生命の社長を35年つとめた弘世現。庄屋を再興した伊能忠敬。、、、

こうやってみると、日本は「家」の存続と繁栄を至上の価値として歴史を編んできたことがわかる。意外にも血筋、血統、肉親を大事にしない。家が大事だから、男子の養子をとり、娘には婿をむかえることができるから、娘が生まれると親は喜んだそうだ。その婿は内部からの場合もあるし、外から招く場合もある。いずれにしても、養子たちは、自分に課せられたテーマを意識し、その家の歴史を知り、人生を組み立てていくから、実子よりも強い使命感を持つことが多くなる。

日本の家という制度は、実は法人であったということだ。実子、養子、婿養子、あらゆる方法を用いて「家」の存続を図ったのである。「家の再興」を息子に託す親や、それをテーマとして人生の荒波に漕ぎ出す人も多くあったのだ。明治維新で西欧から株式会社という制度が入ってきたが、日本がいち早く適応したのは、そういう思想がもともとあったからなのだ。

鈴木與平については、「6代目」に着目して書いてみた。「婿養子」という言葉を採ることにしよう。