大学「本」。赤坂「野田先生」。新宿「橘川さん」。

・午前:大学で仕事:秘書の近藤さんと新著の編集作業。

・午後:柴生田さんと赤坂の野田一夫事務所を訪問。柴生田さんが著書『子ども地球歳時記』を贈呈。考えてみれば、野田先生に紹介してもらったのは、当時の上司だった柴生田さんだった。

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 ・夕:新宿「らんぶる」で橘川さんと懇談。スマートシティ、PSD、映像、学校建設、アジア、クラウド、レポート、ロシア、、、。

・風呂の中で中島敦『教科書で読む名作 山月記名人伝』(ちくま文庫)を読了。

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命日は、8日? 6日?

「名言との対話」11月8日。秦野章「政治家に徳目を求めるのは、八百屋をくれというのに等しい」

秦野 章(はたの あきら、1911年10月10日 - 2002年11月6日)は、日本内務警察官僚政治家

生家が倒産し、旧制中学中退。鎌倉で酒屋の小僧を経て、官立横浜高商を卒業する。その後、旧制日本大学専門部政治科を卒業。生糸検査所などを経て、1939年に高等文官試験に合格。私立大学出身者で初めての警視総監に就任した。

警視庁刑事部長時代には、留置場で自殺や逃亡が多く問題になった会議で 「花だ。留置場に花を飾ろう。大事なのは、厳重な監視より、温かい人間関係、血の交流なんだ。地元のお母さんがたから花を贈ってもらい、花にお母さんの励ましの言葉を書いた名札をかけよう」と発言し、実行して減らしている。

70年安保の学生運動を「いずれ消える泡のようなもの」と言い放ち、過激派から狙われる。護衛をつけようといわれたが、「駆逐艦駆逐艦を守るようなものだ」と言い、拒否した。当時の部下佐々淳行は、後年、「乱世の名総監。秦野総監でなければ、あの警察戦国時代の修羅場は乗り切れなかった。決断力と責任感あふれる人」と評している。

1971年東京都知事選の候補として自民党に担がれた際に「昭和元禄田舎芝居」の 名ぜりふを残したが、結局出馬して革新の美濃部亮吉知事に敗北する。1974年参院神奈川地方区に初当選し、2期務めた。自民党では無派閥の一匹おおかみ的存在で、ベランメエ口調で知られた。第1次中曽根内閣法務大臣に就任。晩年は持ち前の歯に衣ぬ着せぬ発言で、政治評論家として活躍した。

70年安保、学生運動あさま山荘事件、ハイジャック、都知事選、田中角栄逮捕、、、など、秦野が関与した事件をながめてみると、激動の時代を一緒に生きた感じもする。

秦野は名言と失言、暴言の人だった。その中でも「政治家に徳目を求めるのは、、、」は、いまだに時折聞く言葉だ。世論、マスコミは政治に倫理を声高に求めるが、秦野の真意について、政治評論家の俵幸太郎は、政治家には業績という結果責任が重要で、正直や清潔さなどの古典的徳目のみを取り上げるのは、八百屋で魚を求めるようなものだと言っているのだと解説している。「徳目のみ」と「のみ」という言葉を使えばよかったのだろう。いずれにしても言葉は独り歩きする。名言と暴言、失言は紙一重だ。

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 横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日- 2001年11月8日)は高知県高知市出身の漫画家アニメーション作家。

 母が西郷隆盛を好きだったことで隆一という名前がついた。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成。そして戦中・戦後初期の漫画界をリードした。1936年、新聞連載の4コマ漫画「フクちゃん」が始まる。この連載は戦前戦後を通じ、およそ35年間、5534回に及んだ。いたずらっ子で勝手気ままなフクちゃんは日本中の人気者になった。始まった翌年の1938年には第1回児童文学賞を受賞。

NHKアーカイブスでは 「遊びも仕事も楽しくやるのが一番」と横山が頓知と遊びの精神で貫いた生き方を語っている。オモチャが好き。遊びの天才。収集物では、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなどが変なものが紹介されている。この人は忙しい時ほど遊ぶのが信条のユーモリストであった。

画家への道もあったが、漫画は新しい時代の職業であると考え、職業漫画家の道を選ぶ。漫画とは「考えている絵だ」とする横山は「ナンセンス漫画」で世に出ようと志す。ナンセンス漫画の風刺は相手が気がつかなければ、単なるナンセンスにすぎない。しかし隠された小さな針に気がつく人だけが読者でいいとの思いだった。その実例をあげてみる。

手術の風景を描いた漫画と「お医者を怒らせたバカ「よし ますいなしで手術しよう」の言葉。首つり自殺をしようとする漫画と「失敗したときの予備もつくるバカ」の言葉。海で水かけをする男女の漫画と「たのしく大腸菌をかけあうバカ」という言葉。、

1960年の「漫画家酒豪番付」では、土佐高知出身の横山は東の横綱に位置づけられている。大関加藤芳郎、前頭に手塚治虫、富永一郎、おおば比呂司の名がみえる。2002年には、郷里の高知に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたのだが、残念なことに本人はその前年に亡くなった。

1997年発刊の自伝『横山隆一 わが遊戯的人生』の最後は、大いに共感する言葉で締めくくられている。「「しかし、そろそろ自分を考えて、独り歩きをしながら自分を創らなければならない年になりました。、、海岸でせっせと砂でお城を作って遊んでいるようなものです。しかし、波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらをみがいて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、捨てるのもおしいなと思われるような作品を作ることを画業にしたいと思っております」。そうだ、後に遺る作品を作らなければならない。 

 

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))