「寺島実郎の「世界を知る力」のテーマはウクライナ」(20日の東京MXテレビ)


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20日の「寺島実郎の「世界を知る力」のテーマはウクライナ」。

中国:全人代「5.5%成長」目標。中国のGDPのうち政府セクターは6割(アメリカ35%、日本45%)。官製バブル(剛性バブル)で格差と貧困が拡大。「共同富裕」は税制でなくIT企業の寄付という特異なやり方。

ウクライナ問題でインフレが加速。欧米は金利正常化へ。日本の25年間のゼロ金利に出出口は? 有事の円安はなく、円安という異変。輸入へのインパクトが大きい。「巨富の円安」。川上インフレ(65%アップ)・川下デフレ(5%アップ)。景気後退下の物価高へ。

 

ウクライナ危機:プーチンの二つの誤算。「プーチンドクトリン:シロヴィキといわれる側近はKGP時代からの仲間。「力こそ正義だ」。核と軍事力というハードパワー崇拝。ソ連の崩壊に納得していない。ソ連圏の回復。レスペクト・シンドロームというあせり)

「政治(軍事力)への過信」:経済というソフトパワーの怖さを知らない。SWIFTからの排除。ルーブルは1年前に比し80%価値が下落。格付けは投機。国債はデフォルトか。キエフが陥落してもインパクトは深刻。ロシア国民は悲惨に。

「自己認識の甘さ」:軍事・政治大国だが、経済小国。世界のGDP比は昨年1.8%、今年は1%未満に。一人GDPは中国1.1万ドル、ロシア0.5-0.6万ドルで途上国以下。輸出の85%は第一次産品。面積の大きな北朝鮮

 

グローバル経済の中での孤立の怖さ

3月2日の国連のロシア非難決議:反対はロシアとベラルーシのみ。危険は4カ国のみ。CIS(独立国家共同体)という同盟国も離れている。ジョーッジア、ウクライナも脱退。

微妙な中国のスタンス:中国はロシアへの投資をしないというロシアの不満。ロシアのGDPは中国の20分の1に。中国に呑み込まれる。3位の核保有ウクライナ核の傘の提供(?)、空母遼寧の購入、そしてウクライナは中国の一帯一路の中核(2001年パートナーシップ協定)へ。

2003年から4年間、経団連ウクライナ委員会の委員長だった。文研研究とフィールドワークを積み重ねてきた。

 

歴史の中のウクライナ:「国境なき民族」。

9世紀はキエフ公国のウラジミール公は正教系のキリスト教へ。13‐16世紀はモンゴル帝国の時代、「タタールのくびき」、キプチャクハン国として組み込まれた。100年前の第一次世界大戦ロシア革命(1917年)で帝国は消滅し、ウクライナソ連の一翼を担う。現在はCISの一員。(ローマ帝国は395年に西ローマ帝国(独仏英)と東ローマ(ビザンツ帝国の正教)に分裂。プーチンは正教大国を標榜)

 

ウクライナの二つのファクター:ユダヤとコサック。ウクライナはしたたかな民族。(プーチンの誤算)

ユダヤ:セレンスキー大統領もユダヤ系。17世紀にはユダヤ人は農業開発のためにポーランドに集結(35万人)。15世紀から20世紀はロシアによるユダヤ強制移住あり(森森繁久彌の「屋根の上のバイリンひき」はウクライナユダヤ人の生き様を描いた作品)。ソ連時代のウクライナユダヤ系の集積でキエフ工科大学での人工衛星などの宇宙工学、チェルノブイリに象徴される原子力工学のメッカ。イスラエルには100万人が帰っている。

コサック:群れを離れた自由民族。モンゴルの乗馬技術を持った軍団。16世紀後半には特権を付与されポーランド王の傭兵となる。17世紀にうくらいな民族の集団へ。日露戦争の日本軍の相手になった。

 

ロシアのウクライナ進攻が世界史へ与えるインパクト。

長期:100年前に似ている。第一次世界大戦スペイン風邪(4000万人死亡)。4つの帝国が消滅したという転換点。

グローバル下のコロナパンデミック(600万人死亡)。グローバルな相互依存の過敏性。アメリカは9・11のイラクの失敗で超大国から後退した。力の論理の限界を露呈をロシアは思い知るだろう。世界は「全員参加型秩序」「ネットワーク社会」へ移行中だ。

短期:微妙。

アメリカ:バイデンを救った。西側の結束。支持率アップ。トランプへの失望「プーチンは天才」「尊敬」、土地と住民を得るという不動産屋。

日本:岸田政権を救った。北方領土の呪縛からの解放。プーチンには欺かれた(2020年には憲法改正)。幻想が消えて、重荷が降りた。

まとめ:権威主義国家の後退。ソフトパワーの重要性が増す。

(虚勢をはる、ごまかしの国に。誠実、正直な人が多い国だった。全体知。地頭を鍛え、足元を見つめよ。いつまでも自分探しをしていないで、現場に立ち仕事をこなし実力を蓄え次の展開へ。ステップバイステップ。世界を知る力を)

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梅棹全集の図解を整理

遺歌集の編纂。

1万歩。

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「名言との対話」3月21日。柳宗悦「利休程度の仕事に自分の仕事を止めるわけにはゆかぬ」

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年明治22年)3月21日 - 1961年昭和36年)5月3日)は、民藝運動の主唱者である、美術評論家宗教哲学者。

東京麻布出身。学習院では鈴木大拙に英語学ぶ。大拙は生涯の師となった。武者小路実篤志賀直哉と交流。来日中のバーナード・リーチを訪問。卒業時は天皇陛下の恩賜の銀時計。東京帝大では哲学科で心理学を専攻。1914年、声楽家の兼子と結婚。1923年の関東大震災で京都へ。1925年、「民芸」を合言葉に、富本憲吉、浜田庄司河井寛次郎と活動を始める。1931年雑誌「民芸」を創刊。1936年、日本民芸館を設立。1951年、文化功労者

2006年に、東京駒場にある柳宗悦という人物のつくった日本民藝館を訪問する機会を得た。五百五十坪の土地に、大谷石を材料に使った二百坪の建物が完成したのは昭和10年である。本館は一階6室、二階5室の和堂々たる和風建築で、灯篭のように建つ門の板に「日本民藝館」の名が記されていた。玄関を入ると、大階段が目に入る。スリッパがそろえてあるなど、配慮が行く届いているとの第一印象を持った。大きな木の柱と梁、日本家屋らしい障子の多用、各部屋に備えている木のテーブル、そして日本各地から集めた民藝品の数々。

「室町から江戸」の室では、煙草入れ、状袋、財布、抱鞄、箱、喫煙具、角酒器などの日用品が並べられている。柳の思想をよくものに結実した河井寛治次郎の茶碗、三段重、浜田庄司の作品などと並んで、「朝鮮とその芸術」選集、「蒐集に就て」「美と模様」などの著作も並べてある。ほとんどは芹沢けい介の装丁だった。並べてある小壺、碗、土瓶、手箱など、これらの作品はたしかに正しい姿をしている。奇をてらったものはない。これが民藝品だろう。

柳宗悦の間があり自筆原稿が展示してあった。「模様の意義」としてあった文章の標題を「意義」に線を引っ張って消し、「模様とは何か」に書き換えている。また「一度、、の問題を取り扱ってみたかった・」の後に、「のである」を加えてもいた。そして「蒐集に就ての意見」の意見を赤で消してもいた。「人間をた易く夢中にする」の「す」、に線を引いて「させ」に換えている。文章の推敲の後がみえて興味深かった。

愛用の文鎮や万年筆があったが、「踏マレツモ 人ヲ ミチビク 原ノ路  宗悦」という書もあり、仕事に挑む心意気が見えた気もした。

柳宗悦の仕事は膨大であった。『白樺』での西洋美術評論、英米文学研究、西洋宗教哲学、朝鮮李朝工芸の蒐集、美術史、仏教美学、茶道評論、近代工芸評論、そして民藝運動と実に多彩である。

柳は日用の雑器を蒐集した。それらは名もなき職人たちの手によって生れた。これを民衆的工芸、すなわち民藝と名付けた。鏡のように民族の心を映し出している陶磁器、自由にのびのびと描かれた絵漆の美の漆工、全国の金物横丁や鋳物師町で作られていた金工、着物や夜具などの美の世界をつくった布、重さで秤売りされていた和紙を工芸の高みにおいた和紙、手仕事の美の細工物、人間の姿を純化した人形などが柳が見つけた新しい美の形である。

『民藝四十年』(岩波文庫ワイド版)という柳宗悦の書を読んだ。

「日本の眼」という論考を読むと、西洋の眼は完全の美であるのに対し、日本の眼は不完全な美であると主張している。こういった美の形を深く追求した民族はない。日本人は眼がきくこともあって、日常生活では選ばれた器物に囲まれて暮らしている。インド人は思索に長け、中国人は実行に優れ、日本人は鑑賞に長けている。だから日本は日本の眼に確信を持ちそれを世界に輝かせよ、との意見を述べている。

生活に即した器物は強く健康である。そういった美の発見者である柳にとっては、日本全国は完全な処女地であり、蒐集に全力を注いで日本民藝館を創立し民藝運動の拠点とした。

民藝運動の大きな潮流は、現代にでも息づいている。古民家再生という流れもその一つである。自然素材、実用性、簡素など最大級の民藝品が古民家ということになるのである。

白州次郎の妻であった白州正子なども柳の教えを受けて、日本の美の行脚を行っている。武相荘という2人の住居には、柳の思想が息づいていたことを思い出した。

今回は日本民藝館の向かいに建つ柳の住居の中は見ることができなかった。もう一度訪れたい。

柳宗悦は『民藝とは何か』『美の法門』などの名著を残し後世に影響を与えたが、日本民藝館という拠点を確保したことによって、長く生き続けていると思う。この館はその後も活発な活動を展開しているようで、現在では世界50カ国とも交流も持っているという。 2006年以来、私も何度も訪問している。また館の向かい側の旧居も2019年に訪ねている。日本民芸館の向かいに建つ柳宗悦旧居。2階には柳宗悦記念室がある。日本民芸館の設立趣意書、自筆原稿、著書などをみることができる。また書斎の壁半分を占める自らデザインした本棚には4万冊の蔵書がおさまっている。「今日も空 晴し又」という書がかかっている。驚いたことに1階には柳兼子記念室があった。知らなかったが、兼子は宗悦の妻であると同時に声楽家としても大をなした女性であった。

鈴木大拙の弔辞。「君は天才の人であった。独創の見に富んでいた。それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきでない。日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。これは日本だけの損失でない、実に世界的なものがある。まだまだ生きていて、大成されることを期待したのであったが、世の中は、そう思うようには行かぬ。大きな思想家、大きな愛で包まれている人、このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んでいないと、自分はいつも今日のような場合に感ずるのである。不生不死ということは、寞寞寂寂ということではない。無限の創造力がそこに潜在し、現成しつつあるとの義である。これを忘れてはならぬ。これは逝けるものを弔うの言葉でなくて、実は参会の方々と共に自分を励ます言葉である」。

茶の利休については「利休程度の仕事に自分の仕事を止めるわけにはゆかぬ」という言葉を吐いた。利休の茶は、権力に仕える茶であり、人格面でも問題があり、俗気の多い人であって、その程度の仕事のレベルでとどまってはいられないとの決意を語っている。このように柳宗悦の抱く志の高さに感銘をうけて、民芸運動を継ぐ人が多くあらわれたのであろう。