『逝きし世の面影』を書いた渡辺京二という独学者のつぶやきーー「わたしは一生書生だ、と思っています」

渡辺京二という作家は、40歳で勉強の方向にめざめ、50年にわたって独学で研究を続け、その成果として名著を何冊も刊行してきた。そして90歳でなお新しい視点で「明治維新」を書こうとした人である。一昨日、購入した2冊の本から学んだことを記す。

『肩書のない人生 渡辺京二発言集2』。90歳を超えて明治・大正から敗戦までの日本近代史を書こうとしていた。熊本日日新聞の連載「小さきものの近代」がその一部だろうか。

  • 外に出て樹木を見ましょう。
  • 国家というのは、声は必要悪なんです。
  • なるべく広く勉強して、自分で考える、自分の考えをもつ、というのが大事。
  • 自分の言葉を持とうよ。マスコミ語でしゃべらない。自分の言葉で喋る、たたかれることを恐れない、ということをやっていきたいですね。生活語でね、なるべく。
  • 文学というのは、「私はこう生きています」という表現

渡辺京二という人は遅咲きであった。知研の八木哲郎さんからも若い時は、いろんなことに首を突っ込み、ダンスもやっていて、熊本に帰った、という話を聞いたことがある。自分の道を40歳まで探し続けた人なのだ。それから50年の歳月を走り続けたのだ。

「40歳にもなってようやっと学びの道に立つというのはばかげたことであろうが、私にはそういうまわり道しか不可能だったのだと思う。、、、40になって勉強の確信的な方向が開けたというのも、私のまわりあわせなのだ。無益にくやむことはせぬ。まだ時間は残されている」。まだどころか、50年という膨大な時間を手にしたのである。

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『江戸という幻景』。『逝きし世の面影』という名著を書くことによって、滅び去った前近代の人々の存在様式である文明を発見した。この本では近代が何を滅ぼして成立したのか、その代償の大きさを明らかにしている。この本では、個々の人物を取り上げて「江戸」に迫っている。

この本では多くの江戸時代の人物が紹介されている。この中で、文化(1804-1818)・文政(1818-1830)を生きた人をピックアップしてみよう。

浦上玉堂。勝小吉。河井継之助。川路聖あきら。清河八郎司馬江漢菅江真澄高村光雲。中川延良。成田狸庵(中津藩士)。根岸鎮衛。伴こうけい(「近世き人伝」)。本居大平。これらの人は、今年の「名言との対話・近代編」で取り上げたい。それぞれの命日を調べよう。」

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「名言との対話」1月8日。梅津美治郎「幽窓無暦日(ゆうそうむれきじつ)」

梅津 美治郎(うめづ よしじろう、1882年(明治15年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、日本の陸軍軍人。

大分県中津市出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、陸軍大学校を首席で卒業。参謀本部陸軍省の主流を歩む。1936年、陸軍次官。1939年、関軍軍司令官(後に総司令官)、1944年、参謀総長に就任し、終戦後までつとめ、最後の参謀総長となった。

2015年に話題となった映画「日本の一番長い日」(半藤一利原作)をみたとき、関係者の年齢を調べたことがある。昭和天皇44歳。鈴木貫太郎首相77歳。阿南陸軍大臣58歳。木戸幸一内務大臣56歳。東郷茂徳外務大臣62歳。梅津美治郎参謀総長63歳。東条英機元首相60歳。米内光政海軍大臣65歳。昭和天皇は木本雅弘、鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司。吉頂寺晃が演じていた梅津参謀総長には記憶にない。

東京湾で行われた戦艦ミズーリ号上の降伏文書の調印式では、政府代表の重光葵外務大臣)とともに、大本営全権となった。ミズーリ号は米国最後の戦艦で、第二次大戦中は太平洋を中心に活動し、硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行った戦艦である。このサイン文書は、2006年にハワイのミズーリ博物館でみたことがある。梅津は東京裁判では沈黙を守り、終身禁固刑で服役する。

終戦時に自決した大分県竹田市出身の最後の陸相・阿南惟機については、2005年に大分県竹田市の広瀬(武夫)神社を訪ねたとき、その一角に「陸軍大臣 阿南惟機 顕彰碑   岸信介書」という碑が建っているのをみたことがある。大分県国東市安岐町には重光葵を顕彰した三渓偉人館があり、神奈川県の湯河原には重光葵記念館がある。この時代には中津出身の梅津ら大分県出身者が活躍していたのだ。しかし最後の参謀総長・梅津には記念館も、顕彰碑もない。

「最後の参謀総長梅津美智治郎」「終戦をプロデュースした男 梅津美治郎大将」「語らずの将軍」「参謀総長梅津美治郎と戦争の時代」など梅津を描いた本はある。「終戦をプロデュースした男 梅津美治郎大将」では「聖将今村均から尊敬され、あの東条英機に引導を渡し、阿南陸相を蔭から強く支えて、日本を見事に終戦に導いた最後の参謀総長・梅津大将」との紹介がある。

日記もつけず、手記も記録も一切ない。家も建てなかった。演説をぶったり、大声明を発表したり、大論争もしなかった。これらの梅津を描いた書籍は、石碑ではなく、「紙碑」であると言えようか。

梅津は満州事変では不拡大方針をとり、二・ニ六事件では叛乱軍の即時討伐の意見書を出している。「陸軍大学首席列伝(20)」によれば、荒木貞夫将軍は「正に得意において淡然、失意において平然、難に処するに冷然たる偉丈夫」と評している。

半藤一利は「知られざる実力者・梅津美治郎」というタイトルで「‥梅津という軍人は不思議な存在である。一切自筆の文章は残していない。語るエピソードも殆どない。陸軍激動史のなかに、ひっそりと生きている。次官時代にも反対派が失脚を狙って流言蜚語を多く流したが、全く動ぜす。かえって昭和十一年から十三年にかけて梅津時代を応援する形となった。現実主義者、腹黒、外柔内剛、クソ真面目、理論家かつ雄弁家、典雅な好紳士、頭は綿密で明敏など、様々な寸評…」とし、この稀有は軍人をもっとよく調べなければと言っている。

梅津美治郎明治15年に生まれ、昭和24年に戦犯としての終身禁固刑の服役中に、カトリックの洗礼をうけている。そして67歳で病没した。戦争に明け暮れた近代日本を生き、その破綻を主役の軍人の一人として死んだのだ。病床には「幽窓無暦日」と書いた紙が残されていた。幽玄な風景が窓からみえる。それを毎日眺めていると時の流れを忘れる。そういう心境だろうか。