東京富士美術館。「ルネ・ユイグのまなざし フランス絵画の精華」展。混んでいた。創価学会の会員が多いようだ。カフェで読んでいるペーパーや会話からわかる。美術館は教育施設だ。
八王子。創価大学と牧口記念会館の間に位置する東京富士美術館には何度も訪問している。今回の主眼は「ルネ・ユイグ」(1906-1997年)という人物が目当てだ。
美術史と文学を学んだ後に、ルーブル美術館に入職する。31歳の史上最年少でルーブル美術館絵画部長に抜擢された。壁面一杯に絵画をかけるというやり方から、観る人の目線に沿って物語的に並べるという展示方法を編み出した。またナチスによる美術品略奪から人類の美の 至宝である4000点に及ぶ美術品を守り抜いた。この中には「モナリザ」も入っている。
この美術館創立者である池田大作SGI会長との長い友情によって、東京富士美術館の開館にあたり尽力し、名誉館長となった。3回にわたりこの美術館で開催したフランス絵画展を主導した。
「東京富士美術館は、フランスが誇る美術館の一部となるでしょう」
「書くことが知性の言語であるとしたら、芸術、特に絵画は魂の言語である」
「フランス絵画史の特徴は「連続性」と「多様性」である」
同時開催の「時代を拓いた女性フォトグラファー」展も興味深かった。この系統をたどるのも面白いかもしれない。
ジュリア・マガレット・キャノン(1815-1879):テニスン、ダーウィン、カーライルなどの著名人を撮影。
フランシス・ベンジャミン・ジョンストン(1864-1952):アメリカの宮廷写真家。
イモージン・カニンガム(1883-1976):92歳から90歳上の人々を撮影。「After Ninety」が出版。
ジョージア・オキーフ:近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)の妻。
ソニア・ノスコイアック(1900-1975):
ローラ・ギンルピン(1891-1979):ネイティブアメリカンの撮影。
ドロシア・ラング(1895-1965):社会問題のドキュメント写真。
マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971):Life誌初の女性カメラマン。女性従軍記者。
リー・ミラー(1907-1977):マン・レイに入門。助手・愛人。ソラリゼーションを開発。ヴォーグ専門の従軍記者。20世紀を代表。
ゲルダー・タロー(1910-1937):ポーランド人。キャパの公私のパートナー。報道写真家。ヘミングウェイとも交流。
クリス・イーノス(1944-):ボストン
ロッテ・ジャコビ(1896-1990):ポーランド。アインシュタインの写真。
ペレニス・アボット(1898-1991)
イヴ・アーノルド(1912-2012):モンローと親しい。
ルイーズ・ダール=ウォルフ(1895-1989)
インゲ・モラス(1923-2002):オーストリア。インゲ・モラス賞。アーサー・ミラの3番目の妻。
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梅棹忠夫著作集「日本研究」の「大本教」を読了。日本発の世界宗教、エスペラント語、、、、。
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「名言との対話」1月13日。舟橋聖一「俺も後世に残るような小説は一本もないだろう」
舟橋 聖一(ふなはし せいいち、1904年(明治37年)12月25日 - 1976年(昭和51年)1月13日)は、日本の小説家。
1938年明治大学教授。1948年日本文芸家協会理事長。1950年文部省国語審議委員。1964年『ある女の遠景』で毎日芸術賞。1967年『好きな女の胸飾り』で野間文芸賞。1969年横綱審議委員長。1975年文化功労者。1976年に71歳で死去。2007年には小説『花の生涯』(後に初のNHK大河ドラマ)の縁で彦根市が舟橋聖一文学賞を創設。
12月25日、クリスマスの日に生まれたため、聖一と名付けられた。しかしキリスト教には縁がなかった。
15歳年下の末弟のシナリオライター(脚本家)和夫が書いた『兄・舟橋聖一の素顔』(近代文藝社)は、肉親からみた聖一の姿を公平な視点で描いている。没後1年ほど経たった時期の作品である。脚本としてみても秀逸であり。また人物論としても傑作だと思う。
所有欲が強い。一流好み。猜疑心。煩悩の人。完全主義者。几帳面。蒐集癖。欠陥だらけ。癇癪持ち。金銭にがめつい。挫折のない勝利者の人生しか認めない。尊大。蔵書4万冊。、、、兄の真実に迫ったのであり、作家論の資料としても貴重である、と和雄は書いている。
医学の生兵法で片眼を失明。晩年には両眼とも失明状態になったが、口述筆記で執筆を続けた。終生のライバル意識を燃やした相手は、作家の丹羽文雄である。同じ1904年生まれ。舟橋は東大、丹羽は早大。野間文学賞争いで、『花の生涯』は丹羽文雄の『蛇と鳩』に僅差で敗れ、悔しがった。1975年に舟橋は文化功労者になり丹羽に先んじた。しかし丹羽は舟橋が没した翌年に文化功労者と文化勲章を同時受賞している。舟橋は初めて賞をもらったのは60歳の還暦のときであり、かなり遅まきだった。東小結の舟橋に対し、丹羽は西の関脇あたりにいたという和雄の見立てだ。このライバル関係は、71歳で没した舟橋に対し、丹羽はその後29年生きて100歳の長寿を達成している。
NHK大河ドラマの『花の生涯』は1963年4月から12月にかけて放映された。井伊直弼は尾上松緑で、淡島千景も出演していた。中学生だった私は、この番組を見る中で井伊直弼への悪印象が晴れたことを思い出す。その原作者が舟橋聖一だったのだ。
その舟橋にしても「俺も後世に残るような小説は一本もないだろう」と、ある時期に和雄に語っている。昭和の小説では谷崎潤一郎の『春琴抄』を抜くものはないというのが聖一の認識だった。谷崎の『細雪』も還暦を過ぎてからの作品である。後世にまで古典として残るということは大変なことだ。舟橋聖一は60代後半から『源氏物語』、『太閤秀吉』の執筆に邁進したが、両方とも未完に終わっている。還暦から10年余、舟橋は後世に残る作品を完成できなかったようだ。丹羽文雄はどうだろう?