水泳1000mーー平泳ぎとクロール

昨日はジムのプールで1000m泳いだ。40分ほどかかっている。今まで500mが天井であったが、1000m泳いだのは初めてだ。平泳ぎとクロールで交代しながら泳いでいると単調さが消えて、距離がのびることがわかった。

ビジネスマン時代の尊敬する上司は週末に1000m泳いで気分転換をはかっていた。また吉永小百合さんも1000m毎日のように泳いでいると聞く。

局面が変わった。これからは、1キロをノルマとしていこうか。

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新型コロナ騒ぎで、平日にも公園に人が多くなってきた。

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午前。大学:ひと仕事。

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「名言との対話」3月9日。成田知己「大異大同。中異大同。小異大同」

成田 知巳(なりた ともみ、1912年9月15日 - 1979年3月9日)は、日本の政治家日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。

香川県高松生まれ。 東京帝国大学法学部卒。三井鉱山に入社、三井化学文書課長を退職して戦後初の衆院選日本社会党から当選し、以後連続12回当選。60年安保での論客、党内左右両派の仲裁役として活躍。1962年書記長に就任した。1967年には佐々木更三委員長とともに辞任したが、1968年に委員長に就任。党体質改善のため、社会党の弱点として「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」と指摘して克服に努力を重ねた。これは成田三原則と呼ばれた。

『成田知己・活動の記録』第二巻を読んだ。1968年から1979年までの、主として社会党委員長時代の執筆、演説の記録である。社会党野党第一党であった。対峙する相手は前半は佐藤内閣、後半は田中、三木、福田が相手であった。私がものごころがついてからは長い間、成田委員長時代だった。党内の内紛、他の公明党民社党共産党などとの共闘などの難問に取り組んだ人という印象ある。

この本の中で、野党共闘の具体的戦術をインタビューで語っている。意見の不一致があるのに共闘なんかできないという意見に対して、「意見がまったく一致しているなら、別の政党である必要はないんですよ」と笑いながら答えている。続けて「当面たとえば日中国交回復というような具体的な問題について意見の一致をみた場合に、そこで力を合わせてやるというのが共闘なんでしてね」と語っている。綱領が違い、基本政策が違うのであるから、大異を捨てて大同につく、中異大同、小異大同という例をあげながら、意見の相違は棚上げにして、一致した点で統一戦線を組もうとするのがいいと主張している。

このテーマは、野合批判で必ずでてくるものだ。運動をやっていく過程で相互批判をやり、それによって前進があるし、運動の過程で信頼関係が発展するというのが成田の考えで、江田三郎書記長、そして石橋正嗣書記長とのコンビで努力した。しかし、野党の統一戦線は不発に終わった。後任は飛鳥田一雄であり、石橋、土井たか子、そして村山富市と続く。村山委員長は自社政権で総理に就任し、社会党は消滅した。

1978年の大福対決(大平・福田)では、予備選前から、開票日にも、「最後は必ず大平が勝つ」と予言し的中させている。石橋湛山以来の哲学を持った総裁になるだろうというい期待を述べて強い相手になると警戒している。また予備選で敗れて本選を迎える前に辞任した福田首相については「福田首相の引き際が立派だった」と述べている。

野党連合構想は中選挙区時代のものであり、小選挙区制度では、成田知己のいう「大異大同」「中異大同」「小異大同」路線でいくしかないだろう。

 

『 成田知己活動の記録』第2巻(成田知己追悼刊行会)