東京新聞から「都知事選」の取材あり。出版社で企画が進行中。知研幹事会で方針決定。

9時半:東京新聞社会部立川支局の服部記者の取材を受ける。

都知事選」をテーマとした授業。近々、記事になる。
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13時:荻窪で松田君と猪俣君と昼食。

14時:日本地域社会研究所へ。

・猪俣君の8月刊行の新刊「憲法改正」の覚書。私の推薦文を手交。

・松田君と私の共著「フォト川柳」の社長への企画説明。

・私の「図解コミュニケーション全集」の色校と再校を受領。
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16時から18時:代々木で、東京知研の幹事会。

コロナ時代の影響と現状。10月の民博でのイベント。今年のセミナー。「読書会と共同出版」というテーマが浮上。
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18時::猪俣君とビールで懇親会。

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「名言との対話」7月1日。大倉和親「暦の年齢と、体力と精神力の年齢とは違います」

 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。

 父の孫兵衛は、絵草紙屋、書籍屋(漱石の『吾輩ハ猫デアル』を刊行)、洋紙問屋などの開業している。「天のソロバンには違うところがない」と信じ、経験と人間観察で仕入れの名人になっていった。

陶器製造業は「乞食になっても私がやらえねばならぬ仕事だ、かく思い込んだ仕事である以上は天が必ず助けてくれるだろう」「守るということは退くに等しく、進み取る道を講ぜねば世に遅るること言うまでもない」。つねに日本の最先端をめざした人である。「子孫には事業を残すのがいい」と息子の和親とともに仕事に励んだ。

息子の大倉和親は慶應義塾幼稚舎に学び1894年慶應義塾本科を卒業し、父の親友の会社の森村市兵衛の森村組に入り、神戸支店勤務を経て、1895年より1903年までニューヨーク支店勤務、イーストマン・ビジネスカレッジ(商業夜学校)修了している。

1904年、花瓶やコーヒーカップなど輸出用白色磁器製造を目的とする日本陶器合名会社(現在の(株)ノリタケカンパニーリミテド)設立に際し、初代代表社員(経営責任者)に就任。日本陶器の改良を考え日本陶器合名会社を名古屋で父・大倉孫兵衛らと設立、日本初の洋式陶磁器焼成窯を備えて、ノリタケチャイナの名を世界にひろめた。

1917年、分離独立し、東洋陶器株式会社(現・TOTO)設立。1919年日本碍子を設立し社長。1921年建築用タイルの伊奈製陶所(後のINAX、現・株式会社LIXIL)、1924年伊奈製陶株式会社を設立し会長。積極的な技術導入と全国展開。美術陶器の 大倉陶園は皇室御用達となった。1955年7月1日に79歳で死去した。

この父と子は、衛生陶器のTOTO、内外装タイルのINAX、碍子の日本ガイシ、自動車用スパークプラグの日本特殊陶業、洋食器のノリタケ、皇室御用達の最高級陶器の大倉陶園。これらを創業し、世界のトップブランドに育てあげた。

 息子の和親は、本業以外にも、外貨獲得のためのサカタのタネ、カガミクリスタル(ガラス食器)、金属食器の関刃物などの会社も支援している。一大陶業王国を築いた類まれな二代目であった。英国貴族の風貌、白皙長身、眼光炯炯、頭脳明晰、識見高邁、熟慮深謀。製造から経理、販売まで熟知。最先端情報に敏感。2男5女の子宝にも恵まれている。亡くなった時は、青山斎場で、日本陶器・東洋陶器・日本碍子三社の合同社葬が行われた。これは珍しい。死後、妻は大倉和親記念財団を設立している。

森村和親は目標を絶えずより高くより高くと設定して休まなかった。「我を越す者はなしとなったとき、とかく自負心が起こりやすい」と日本陶器創立30周年式典で祝辞を述べている。この人は暦の年齢を信じず、永遠の青年のまま生涯を閉じたのである。

製陶王国をきずいた父と子―大倉孫兵衛と大倉和親

製陶王国をきずいた父と子―大倉孫兵衛と大倉和親

  • 作者:砂川 幸雄
  • 発売日: 2000/07/01
  • メディア: 単行本