「町田市民文学館 ことばランド」で「町田市名誉市民表彰記念 森村誠一展」

「町田市民文学館 ことばランド」で「町田市名誉市民表彰記念 森村誠一展」。

「ことばランド」は、「尾辻克彦赤瀬川原平ー文学と芸術多面体」展、「みつはしちかこ」展、「野田卯太郎」展、「57577」展、「20X20 原稿用紙」展など、いつもいい企画展を開催していて、ひいきにしています。今回は簡単な展示であったが、写真撮影は不可だった。この点は残念です。

さて、これを機会に、今まで森村誠一について書いたものをまとめてみることにしました。

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NHK俳句王国:日曜の朝は、NHK教育ではテレビ体操の前の時間が「短歌」で、後の時間が「俳句」になっている。本日の俳句の時間では、選者は高野ムツオ、季題は「夜長」で、いくつかの秀句が紹介されている。「慣れたとは 言えど独りの 夜長かな」 

毎回ゲストが招かれていて、俳句人口の多さと奥の深さに驚くことが多い。今回は、小説家の森村誠一(1933年生まれ)さんだった。森村さんは「写真俳句」を提唱していて、写真と俳句を結合させた試みを展開している。「森村誠一写真俳句館」http://shashin-haiku.net/には、2006年3月の第一週の「梅が香を煮つめる藍や星を溶く」から、2010年10月の第350週の「家老詠む句風城下の秋の風」と松山特集「行く秋を置き去りにして夢列車」までの全作品が掲示されている。森村さんの写真も素晴らしいが、そこに俳句が置かれるとまた味わいが深くなる。確かに写真と俳句は相性がいい。
ブログは「写真俳句歳時記」で「人生の証明日記」http://blog.livedoor.jp/morimuraseiichi/という森村さんらしいタイトルだ。サイトはなかなか凝っている。

「行き着きて なおも途上や 鰯雲」という自句を森村さんは紹介して、創作者はもうこのへんでいいかなと自分に妥協したら終わりであり、こういう心境で仕事をしているのだ。芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野をかけ巡る」と同じ心境だ。芭蕉は俳句と文章の両方を持っていたから今日まで残っている。自分は芭蕉を超えるつもりで仕事をしている、と語っていて感銘を受けた。森村さんの著書リストをみると、1965年から2011年9月までの46年間に、実に375冊の本を上梓している。

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森村誠一写真俳句のすすめ」。森村誠一写真俳句の愉しみ 四季の彩り」。小説家の森村誠一は写真と俳句を一体として表現する「写真俳句」を推奨している。この2つの入門書に大いに触発された。

 平凡な写真が非凡な句境や句材になっていくのが面白い。
 平凡な写真が俳句と合体して非凡な世界を表現する。
  俳写一体がこの写真俳句の思想である。この2つの化学反応で独創が生まれる。
 撮影した映像をじっくりと観察していると俳句が生まれる。
 「歳時記」は先行名句の結晶であるけれどもバイブルではない。まず575にまとめてみることだ。

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森村誠一「祈りの証明--3・11の奇跡」(角川書店)を読了。
野生時代」の2012年4月から2013年4月号まで掲載された連載を加筆・修正した書物
社会派推理小説の大家となった森村誠一東日本大震災の1年後から描き始めた渾身の作品だ。

戦場カメラマンの中年男性を主人公に、その青春と3・11以降の日々をだぶらせながら描いている。大震災、被災地の人々、原発という凶敵、電力企業を中心とする体制、被災地巡礼、新興宗教の跋扈、権力と宗教の癒着、などの道具立てで日本の今を描く鎮魂の力作。
森村が手掛けている、写真と俳句を合わせた「写俳」を効果的に使って、現代の問題を描く手法はさすがである。

非情、鬼、生存と生活、救済、原爆と同根の原発、飼いならせない猛獣、制御不能の化けもの、原発ジプシー、悲話と美談、改易流行が実態のマスメディア、人間性が濃縮する天災と希薄になる戦場、避難所巡礼、尊い臭気、行脚僧、ヘドロの海に向かっての読経、号泣作戦。指導力と復興に向ける姿勢。祈りは他人そして自分に捧げる、孤独死より自殺力、グリーフケア、人生の縮図、災害文化、、、。

  • 社会への始発駅には人生の全方位に向かう列車が勢揃いして、新卒の乗客たちを待っている。終着駅は楽園か、極地か、永久凍土か、不明である。全方位に向かい分かれる人生列車には同時に無限の可能性がつまっている。青春とは未知数の多いことである。
  • 無限の可能性に満ちている行先不明列車の乗車券を放棄するには野心が強すぎた、、、。
  • 最先端を追う職業は、最先端にいることが安心立命である。

夫焼く荼毘の炎で暖をとる
救出の順位選びて我は鬼
寒昴たれも誰かのただひとり
火の海に漂流しつつ生きており
敗れざる鉄の遺骨や供花まみれ
生き残り松の命に雪が舞う
炎天下原発無用の座禅僧
被災地をまっすぐ照らす月明かり
七夕やママが欲しいと被災孤児

写欲。写材。写俳。画俳。句会。句境。、、、。

 森村誠一写真俳句のすすめ」(朝日文庫)を再読了。 写真と俳句が一体となった写真俳句はいいかもしれない。人生の記録として凡句を重ねよう。

森村誠一の写真俳句のすすめ

 ・写真を撮り、あとでじっくり観察して俳句をつくる。

・俳写同格

・時間と空間

・悠久の歴史。深遠な心理描写。

・句会にはでない。他人の句を批評しない。名句をたくさん読む。歳時記に親しむ。俳句は足でつくる。

・句境は持続性がある。句材は至るところに。

俳人にとって俳句に勝る人生の記録はない。人生の記録であるから凡句でも構わない。

写真俳句の特徴は、抽象化の極致である世界最短詩型の俳句と、具象的な写真をジョイントしたものである。

・350年近い歴史の俳句と最先端の機器を合体して写真俳句をつくる。

・人事。日常。旅。アウトドア。1万歩。

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2022年5月。『老いる意味』(中公新書ラクレ)を読了。

・最先端にいるというのは、未来に接続していながら、自分が耕した過去にもつながっていることだ。

・作家という仕事には定年がない。

・私は100歳まで現役を続けるつもりである。

・写真+俳句=写真俳句は楽しい。

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「ユーチューブ「遅咲き人伝」の動画集録を1時間。鈴木大拙宮脇俊三

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「名言との対話」5月22日。川端実「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」

川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 2001年6月29日)は、日本の洋画家。 

東京都文京区小石川生まれ。祖父は明治期の日本画家である川端玉章、父も日本画家の川端茂章という美術家一家であった。享年90。

1934年、東京美術学校油画科卒業。1939年光風会会員。1950年多摩美術大学教授。1958年以降は、ニューヨークを拠点に抽象画家として活躍する。

2019年、世田谷文学館の『原田治展「かわいい」の発見」』をみたときに、川端実という名前を知った。原田治は「終始一貫してぼくがが考えた『可愛い』の表現方法は明るく、屈託が無く、健康的な表情であること。そこに5%ほどの淋しさや切なさを隠し味ように加味するというものでした」「イラストレーションが愛されるためには、どこか普遍的な要素、だれもがわかり、共有することができうる感情を主体とすることです。そういう要素のひとつであると思われる『かわいらしさ』を、ぼくは、この商品デザインの仕事の中で発見したような気がします」と語っていた。

「かわいい」の発明者のイラストレータ原田治は7歳から川端実に絵を習う。18歳の時、画家になりたいと相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめる。

多摩美大のデザイン科に進学し、卒業すると川端先生の住むニューヨークの近くにアパートを借りて指導を受ける。原田は「コスモポリタンである川端実が、ニューヨークの地で次第に東洋の、それも日本民族古来の美意識に近づいてゆくの見るのは感動的なことでした」と書いている。

1975年には、神奈川県立近代美術館で川端の回顧展が催されている。「日本を離れ、日本の画壇からもあえて遠ざかり、それでいて大きな曲線を描いて民族的な日本の美意識に回帰してゆく」という説明であった。抽象画家として国際的評価の高かった川端実は、「日本への回帰」を果たしたということになる。

さて、弟子の原田はどうなったか。2006年刊行の『ぼくの美術手帳』を書くと、本人の心に急激な変化が起こったのである。「若い頃に一度はあきらめていた画家への志望、純粋絵画をこの手で再び描きたいという強い欲求が頭をもたげはじめました」。仕事と都会から離れて完全な孤独の時間を確保するために、太平洋上に浮かぶ島に真白な箱型の「アトリエ」をつくっている。この島はどこか。調べたが、秘密の壁が高くてなかなかわからなかった。

18歳の時、画家になろうと川端に相談するが、「一生働かず稼がずに、絵だけを描いていけるのなら良し、ダメなら絵描きになるな」と言われ、画家の道をあきらめ、多摩美大のデザイン科に進学する。その後、幸運にも恵まれ、イラストレータになり、多忙をきわめるのだが、少年時代の夢は60歳になって実現する。2006年の還暦後は1年の半分をこのアトリエで抽象画を描くことに費やした。

あくせく働かずに生活できる経済基盤が整ったときに、川端先生の言葉を思い出し、「絵描きになろう」としたのであろう。原田にとって、川端は生涯の師匠であった。

原田は亡くなるまでの10年間は、2005年元旦から始めたブログ「原田ノート」を亡くなる5日前まで833回書いている。

師匠の川端実は「日本」へ回帰し、弟子の原田治は、「自分」への回帰を果たしたのだ。