「知覧特攻平和会館」ーー父の世代は日露戦争、息子の世代は大東亜戦争。その子どもが私たちの世代だ。

先週土曜日に知覧の知覧特攻平和会館を訪問した。

「知覧」「筑前町大刀洗」の特攻も、「広島平和資料館」と命名された原爆も「平和」という言葉をつけている。長崎は「長崎原爆資料館」でサブで長崎市平和会館となっている。なぜ「平和」がついているのか。何かありそうだ。

桜並木に沿って1000以上の石灯篭が迎えてくれる。散華した17歳から20代前半の1036人の魂を慰めるために計画されたのだ。一基一基が特攻隊員の墓である。会館の建物の形も特攻隊員の魂を鎮める場所という厳粛な雰囲気を漂わせている。

写真、遺書、日記、手紙まど4500点が展示されている。そして映像、戦闘機などもみることができる。勇ましい言葉とともに、あどけない少年の出撃前の顔をみて、涙が出てくる。どんな人も、涙を禁じ得ないのではないか。「必中必殺」「悠久の大義」「最高の名誉」「幸福」「天皇陛下万歳」、、という紋切り型の遺書。特攻は決死隊ではなく、必死隊であった。中には「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます」という人もいたらしい。

知覧高女のなでしこ会(当時14、15歳)「お兄様がた」「日本女性ということを忘れず一人でも殺して死ぬつもりです」「立派な方々ばかり」「日本の兵隊さんはえらい」。彼女たちは厳罰を覚悟で実家への手紙を預かっている。

「特攻の母」と慕われた鳥濱トメ「隊員たちの多くは、戦争をしてはならない。平和な日本であるように、ということを言っていました」「みんな極楽に行く人たちでしたから、とてもやさしいんです」「僕たちは年齢をほんのわずかしかもらえないから、残りはおばさんにあげる。だからからだを大事にして長生きしてください」「こんないたいけな子供たちが、、、ほんとに不憫でならなかったよ」。戦後、知覧に進駐した米兵の世話もせざるを得なくなる。米兵からは「ママ」と呼ばれた。観音像建立までしている。戦争孤児、混血児もあずかった。娘の礼子は赤坂の「薩摩おごじょ」という居酒屋で生き残った人たちと交流を続けた。

遺書・遺詠「人生の総決算 何も謂うこと無し」「君の為吾は征くなり南の海に 敵殲滅の火と燃えて」「俺が死んだら何人泣くべ」「笑って征きます」「幸福な一生を送ることができました」「来る年も咲きて匂へよ櫻花 われなきあとも大和島根に」「遂に最後までお母さんと呼ばざりひ俺、、、母上お許しください」「栄えある特攻隊長として部下とともに皇国の永遠無窮を信じ欣然として死に就きます」「来る年もまた来る年もとこしへに 咲けと祈りて我は咲くらむ」「武人最高至上の幸福です」「初陣が最後」「かへらじと思ふこころのひとすじに 玉と砕けて御国まもらん」「あんまり緑が美しい 今日これから 死に行く事すら 忘れてしまいそうだ、、、」「皇国に生まれ君のため地獄に生く、何たる極楽ぞ」「たかが五尺の体を、それを五万トンの棺桶に休む」、、。

三角兵舎での死を待つ日々。オンボロの飛行機しかあてがわれなかった。不時着後、帰した者への冷たい仕打ち。

彼らの父の世代は日露戦争。息子の世代は大東亜戦争である。その息子が私たちの世代だ。

 

 

 

 

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羽生善治が1500勝を達成というニュース。

羽生 善治(はぶ よしはる、1970年昭和45年〉9月27日 - )は、日本将棋棋士永世竜王十九世名人永世王位名誉王座永世棋王永世王将永世棋聖、名誉NHK杯選手権者。連続タイトル保持 - 27年9か月 (1991年3月18日棋王獲得-2018年12月21日竜王失冠)。現在は無冠。1970年生まれの51歳。

インタビュー:「試行錯誤」。「新たなスタイルを」。「自然体で」。「長く」。

次の目標

・通算タイトル獲得100期。歴代1位の 99期(大山80期)。

・A級復帰。

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安藤百福やなせたかし新田次郎森繁久彌公文公山口洋子佐藤忠良柴田トヨ。村野四郎と片岡球子。古川薫と川田龍吉。野上弥生子宇野千代葉室麟内田康夫今西錦司宮尾登美子壷井栄石井好子

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「名言との対話」6月16日。大倉喜七郎「成功者はおやじの喜八郎さ、おれは息子でひとつ足りないから喜七郎てんだ」

大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年明治15年〉6月16日 - 1963年昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥

大倉喜八郎が築いた財閥の御曹司として生まれる。18歳で英国のケンブリッジ大学に留学し、7年を過ごす。ボートやスキー、自動車、そして美術、音楽などの文化にも造詣を深めた。「バロン(男爵)・オークラ」とも呼ばれていた。父は91歳まで家督を譲らなかったため、部屋住みの期間がながかった。大倉財閥は直系15社に加え、大倉鉱業、大倉商事、日本無線東海自動車、帝国ホテル、川奈ホテルなど200社以上の関係会社を傘下におさめていた。

喜七郎独自の事業としては、1930年にローマで開催した日本画の大展覧会のために、横山大観を団長とする芸術使節団を送り込んだことを思いだした。大観の「夜桜」など大作の名画ばかりであった。準備の映像をみたことがあるが、大観が笑っている姿をみることができた。

腹違いの弟の大倉雄二が書いた『男爵 元祖プレイボーイ 大倉喜七郎の優雅なる一生』(文芸春秋)を読んだ。雄二は父が83歳の時に60歳以上年下の母から生まれた庶子である。恵まれた嫡男を貧しい庶子の視点から描いた伝記である。

午前は関係各社の社長、会長業。午後はアシスタントに囲まれて作曲をしていた。そしてプレイボーイ、浪費家、通人、粋人、光源氏などと呼ばれていた遊び人だった。「バロンは文化的すぎるよ」と言われるほど、壮大な不労所得で一流の芸術家、芸人に援助するだけでなく、日本ペンクラブ日本棋院にも大きな援助をしていた。

敗戦で満州、シナ、朝鮮にあった全財産を失った。そして財閥解体により公職を追放され、全てを手放すこととなった。

しかしホテルへの未練は断ち難く、1958年には「世界一のホテルを作る」と、76歳で資本金10億円を集め、新ホテル建設のための会社を設立する。私有地の私立美術館「大倉集古館」以外の部分がホテルの建設用地となった。3年後に「世界に通じる日本の美と心」をテーマとしたホテル・オークラが完成する。雄二は喜七郎が「知っていたのは金の威力で、価値ではなかった」と書いている。喜七郎は。80歳で死去。

それにしても父の喜八郎が、ひとつ足りないとして、喜七郎と命名したの不思議だ。生まれたてなのにわかるのだろうか。しかし大倉財閥として名前が残ったのは、喜七郎の「ホテル・オークラ」である。今までこのホテルには何度も足を運んだし、大倉集古館も堪能しているが、このようなドラマがあったことを初めて知った。