企業ミュージアム訪問記を4つ。
日銀金融研究所「貨幣博物館」。古銭収集家・田中啓文。
エース株式会社の「世界のカバン博物館」と「新川柳作記念館」。
奥野かるた店「小さなカルタ館」。二代目の奥野伸夫。
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朝:マレーシアの田原真人さんと「miro と図解コミュニケーション」というテーマで田原さんのmiroを使ったメモをみながら1時間ほど語り合いました。「オンライン図解コミュニケーション」というテーマが浮上。
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今日の耳学(朗読)
・芥川龍之介『歯車』。自伝的作品。死の影が漂う。夏目先生。全6章で構成され、避暑地から都心に出かけた「僕」が次々にキーワードに襲われる強迫観念に囚われる。
・小林勇(1903年3月27日 - 1981年11月20日。岩波茂雄の娘婿。編集者。岩波書店会長)インタビュー(カルチャーラジオNHKアーカイブ):インタビュアーは尾崎士郎(1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2 月19日)。岩波茂雄(1881年8月27日 - 1946年4月25日)。幸田露伴(1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)。露伴は「自分のこと、過去のことは語らなかった。興味のあることを語った」。関係者の年齢の位置関係がわからないとよく理解できない。
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マッサージ:往復を含め8000歩。
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一浴一冊:久里洋二「ボクのつぶやき自伝」(新潮社)。
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「名言との対話」4月6日。桂米丸「弟子は師匠の「鏡」なのだ」。
四代目 桂 米丸(かつら よねまる、1925年4月6日 - )は、落語家。
「わが師 今輔のこと」というテーマの噺をする映像をみつけて楽しんだ。かぞえで80歳の時の姿だ。小学校時代から父の落語のレコードを聴いていつの間にか「寿限無」などを覚えてしまった。学校や軍隊ではそのおかげで人気者になった。
旧制東京都立化学工専という高学歴ではあったが、敗戦後落語家になろうと決心し、17歳年上の兄経由で 5代目古今亭今輔に入門する。この師匠のエピソードをいくつも語っていたが、小説家の長谷川伸との会話もよかった。今輔は群馬弁が抜けず落語の江戸弁がうまくできた。その悩みを伝えたところ、「うまくなればそれでいい。味が出てそれが個性になるよ」と言われ、開眼したそうだ。
読了した『落語家 米丸 笑いの引き出し』(うなぎ書房)は、師匠から得た教訓だらけだ。いい弟子であったことがわかる。
1947年 、古今亭今児を名乗る。1949年、師匠・今輔の前名であった桂米丸を襲名し、真打に昇進する。1976年の師匠・今輔の死去に伴い、翌1977年、日本芸術協会(現:落語芸術協会)(芸協)の3代目会長に就任した。米丸はほぼ同時期に落語協会の会長職に24年間あった5代目柳家小さんをいつも目標にしていた。米丸は23年間、会長職にあった。
師匠の方針で「バスガール」など新作落語から出発したこともあり、時代の先端の風俗を取り入れて一世を風靡していく。また桂米丸はテレビ番組の司会やドラマでも活躍したから、その人柄はよく知っている。
この自伝を読むと、師匠の教えがそのまま弟子の教えになっているという感じがする。師匠は真心の人であった。以下、教えをいくつかピックアップ。
・売れている人の真似をしなさい。
・腹が立ったら、一人でお酒を飲んで寝ちまうことです。怒りのエネルギーは芸にぶつけることです。
・上にハマろうとしてヨイショするより、下に厚くしなさい。
・人間ほめられたら注意することです。
・みんなに評判がよくないと駄目なんです。
弟子は師匠の「鏡」なのだ。一字一句同じように繰り返すのが稽古だから、結果的に、教えた本人の欠点もみせてくれることになる。弟子に稽古をつけることが自分の勉強になるのだ。弟子に教わるとはこういうことだとわかったと米丸はいう。教えることは学ぶことであるとはよくいわれることだが、落語の師弟関係はその極致だろう。
桂米丸は本日で96歳。活動を継続している落語家としては最年長であり、いまなお寄席を中心に活動を続けているという。