「明国からやってきた鬼才仏師 范道生」展(大宰府の九州国立博物館)

先日、大宰府九州国立博物館を訪問した。

東京、奈良、京都に次ぐ4番目の国立博物館として、平成17年10月16日に開館。大宰府天満宮から長い長いエスカレーターを上がっていく過程は歴史を遡っていくという感じです。「学校より面白く、教科書より分かり易い」という目標に沿って活発な活動をしているようです。

メインの展示は「皇室の名宝ーー皇室と九州をむすぶ美」展でした。宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する皇室のコレクションの中から、皇室の慶事ごけいじに際して九州各地から献上された品々や、各時代の日本美術の名品が展示されていました。

他には、「明国からやってきた鬼才仏師 范道生」展を鑑賞してきました。

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范道生(1635‐1670)は明国の福建省から1660年に長崎に到着。1663年、26歳のときに萬福寺に到着。脱活乾漆造りの技術が注目される。29歳、日本黄檗宗の祖・隠元72歳の誕生日に隠元の像を完成させた。隠元は「老僧、この土の三坐道場に至り、つねに像を造らんと欲すれど、とくに巨匠なし」と述べていたが、京都宇治の萬福寺に范道生を迎えたのだ。1年余の滞在の後、長崎に帰る。途中豊前小倉の藩主小笠原忠真に引き留められて新寺にために韋駄天などの画像を急ぎ描いた。30歳、明国の広南にいる父の古希を祝うため離日する。

再び来日したが、新来唐人扱いで滞留許可は降りなかった。吐血を患っていた范道生は1670年日本で死去。36歳だった。日本滞在はわずか6年だった。

 この企画展では、達磨大師座像、韋駄天立像、関帝関羽)像、三官大帝の像(福を授ける天官、罪を許す地官、厄災を除く水官)などをみた。

特に印象に残ったのは「十八羅漢座像」だ。羅漢とは尊敬に値する者でさまざまの神通力を持つ、禅僧の理想像である。両手で胸を裂き、仏の顔をのぞかせるという奇抜なデザインだ。誰の心に中にも仏がいるということを示している。

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・午前:宮城大学、多摩大時代の資料の収集。

・午後:立川で知研の福島事務局長。来週20日にZOOMで幹事のミーティング

・整体で九州の疲れをとる。

・夜は、橘川・久米対談「東川龍太郎。巨樹クラブ。フラダンス、、。みんなの図書館。久恒事務所。中老の男、、映像ソフト・ダビンチ」滑川海彦講義「スタートアップ。官僚化、新陳代謝、ダイナミズム。パンデミックは居座る。グローバリズムは加速する。リモートとAIでチャンス、、」

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「名言との対話」8月12日。梅田晴夫「母親の愛情と言うものは、すべてをくらい尽くし焼き尽くす夏の烈火のそれではなく、すべてをやわらかくおだやかな光で包み、静かに温めてくれる冬の太陽の光のようなものだということです」

梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。

慶應義塾大学卒。フランス文学を学ぶ。学生時代から「三田文学」編集に携わる。小説「五月の花」で昭和24年度の水上滝太郎賞受賞し作家生活に入る。1960年に広告の世界に転身する。博報堂取締役として活躍を経て、1965年から作家生活に専念し、テレビ・ラジオの脚本、エッセイなどの文筆活動を続ける。

代表作に戯曲「未知なるもの」、ラジオドラマ「母の肖像」など。フランスの喜劇作家ラビッシュの翻訳紹介者としても知られ、30年を超える収集趣味をいかした著書「THE万年筆」「THEパイプ」「紳士の美学」「ひまつぶしの本」「おかしな世界一」「嫁さんをもらったら読む本」「紳士のライセンス」、訳書「フランス俳優論」などがあり、「雑学の大家」と呼ばれる。

2015年に、世田谷文学館で「植草甚一スクラップ・ブック」展で名前をみかけた。同時開催されている「コレクション展 特集 戦後70年と作家たち」の中に、「不老少年座談会」の雑誌記事があった。1976年の「GORO](小学館)の企画だ。そこでは、若者に人気の著名人が集まっていた。教祖・植草甚一(68歳)、巨匠・横溝正史(74歳)、識者・会田雄次(60歳)、そして紳士・梅田晴夫(55歳)という人たちだった。これらの人たちに若い梅田は伍していたのだ。

1976年書籍の復刻版の梅田晴夫『これが元祖だ』(ワニ文庫)を読んだ。どんなことにも元祖はある、ということで古今東西の事例を調べた労作である。

探偵小説の元祖はエドガー・アラン・ポー海上空港の元祖は長崎県大村の箕島空港。元祖ダイナマイトはノーベル。万年筆はウオーターマン。エレベーターはルイ14世。日本初のエレベーターは日銀を設計した辰野金吾。世界で初めてインスタントコーヒーを発明したのは日本人のカトー・サルトリ博士。パチンコの発明者は正村竹一。グラハムベルが発明した電話機に向かって最初に話しかけた日本人は憲法学者の金子堅太郎。写真の元祖は上野彦馬ドストエフスキーの『罪と罰』を最初に買ったのは坪内逍遥。日本で初めて空を飛んだのは徳川好敏と日野熊蔵。日本最初の女優は川上貞奴中大兄皇子が作らせたと水時計が完成した日の6月10日は時の記念日。女王になった女性第1号は3世紀の邪馬台国の女王卑弥呼。日本初のタキシード姿は渋沢栄一。最初にアメリカ喜劇を見たのはジョセフ・ヒコ。、、、。まさに雑学の大家と呼ばれるだけのことはある。これを書いた時点で50代半ばだった。

インターネットの登場時に論客として議論を引っ張り、私もファンであった梅田望夫は春夫の息子だった。娘は脚本家、エッセイストの梅田みかである。どちらも春夫の血を引いているようだ。

梅田春夫語録。

「人生なんて考えつめるほど深刻じゃない。かといって、考えただけでわかるほど甘くもない」「料理のうまい女の亭主は生涯浮気をしない」「愛する力って? 結果を考えずに行動する力だよ」

ここでは、「母親の愛情と言うものは、すべてをくらい尽くし焼き尽くす夏の烈火のそれではなく、すべてをやわらかくおだやかな光で包み、静かに温めてくれる冬の太陽の光のようなものだということです」(「母の肖像」より」を採ることにしたい。

梅田望夫の3度目の結婚は39歳であった。翌年長男望夫、5年後には長女みかが生まれた。この結婚と同時に放送作家の仕事を辞めて収集趣味を生かした作家になる。1980年刊行の「嫁さんをもらったら読む本」のあとがきに、「この本は私の2人の子供たちへの(早すぎる遺書)」と記している。その半年後60歳で死去しているから、早すぎてはいないことになった。以上は20歳前後から住んだ、母方の実家の別荘があった神奈川県二宮市の「図書館便り」2005年7月15日発行の「二宮ゆかりの人物」にあるエピソードだ。

私もこのコロナ禍に母を亡くしたばかりだが、「すべてをやわらかくおだやかな光で包み、静かに温めてくれる冬の太陽の光」という梅田春夫に賛同する。