「川端龍子VS高橋龍太郎コレクション」展ーー「コレクションはいつまでも若い」

先週、大田区立龍子記念館「川端龍子VS高橋龍太郎コレクション」展を訪問した。

高橋龍太郎というコレクターにに興味があった。龍子記念館の訪問は2度目である。

会場では大型作品を鑑賞した。川端龍子「爆弾散華」と会田誠「紐育空爆之図」。鴻池朋子「ラ・プリマヴェーラ」。川端龍子「青不動」と天明屋尚「ネオ千手観音」。山口晃「今様遊楽図」、、、。

美術には多くの分野があり、小さな領域に区分されている。しかし「今生きている私たちが、混ぜてしまえば、皆同じものである」と高橋は述べている。川端龍子と現代美術作家を並べるのは、同時代の作品とみるということになるのだ。

高橋龍太郎は1946年生まれ。祖父は1888年明治21年)。父は1918年生(大正7年)であり、父は大正、祖父は明治生まれで、本人も戦後生まれであり、同世代感覚だ。

高橋龍太郎は医師。1990年、34歳で東京・蒲田にクリニックを開設。待合室に絵を飾るために画廊をめぐり版画などを購入することがきっかけで絵画を集めるようになる。

1997年より、日本の若手作家を中心に、現代美術のコレクションを本格的に開始する。そして医院経営以外の空き時間のすべてを画廊巡りやギャラリスト(美術商)たちとの情報交換に費やしていく。

1990年代後半という時代は、日本のバブルが崩壊し金融危機によって「失われた10年」と呼ばれる時期だった。美術界も同様で、公立美術館は経費削減の波をかぶって優れた作品を買う余裕がなかった。その時期から、高橋龍太郎は、将来のどうなるかわからない若手の作家たちの作品を、「現代を生きる若い作家たちのアートに賭ける一途な夢を一緒に見たい」として25年以上にわたって2000点以上購入し続けた。こ

の失われた期間は、20年になり、30年になった。結果的に、日本経済の衰退の時期に若い才能が描いた作品を買い支えたことになる。90年代から2000年代の重要作品を擁する貴重なコレクションとなったのである。草間弥生村上隆奈良美智会田誠荒木経惟森山大道といったスターたちの作品があり、国内外22の公立・私立美術館にも作品を貸し出している。

高橋は「日本の製造業の衰退が言われて久しい。今や日本人の「美意識」くらいしか世界に向かって発信できるものはない気もする。この日本人の美意識の遺伝子は、大和絵以降1000年の歴史を経て、現在の日本画に継承されている」と、日本人の美意識の価値を高く評価している。

現代美術コレクターとなった高橋龍太郎には、まさに著書に『現代美術コレクター』(講談社現代新書)というがある。「コレクターというのは、国の文化の基本的な担い手である一方で、歴史的な役割も果たす」のだ。

「コレクションはいつまでも若い」と高橋はいう。コレクションは現在進行形で、つねに進化していく。立ち止まったら終わりなのだ。コレクションは生きている。

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幻冬舎オンラインの連載の3回目。

 

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「名言との対話」9月20日。橋爪四郎「古橋は選手を育てて金メダルを取るために水泳連盟に入り、僕は底辺を広げるためにスイミングスクールを開く事になるんだ」

橋爪 四郎(はしづめ しろう、1928年9月20日 - )は、日本の競泳選手、スポーツ指導者。ヘルシンキオリンピック競泳男子1500m自由形銀メダリスト。

和歌山県生まれ。旧制海草中学(現県立向陽高校)卒業後、奈良の靴下製造会社に就職。古橋廣之進に「橋爪くん、俺と一緒にやらないか」と誘われ、日本大学に入学。懸命の努力が実って水泳選手として驚くべき成長を遂げる。自由形中長距離で古橋と一時代を画した。1952年のヘルシンキオリンピック1500m自由形で銀メダル。世界新記録は十一回塗り替えた。引退後は橋爪スイミングクラブを設立して後進を育て、日本水泳連盟顧問、文部省スポーツ指導委員、横浜市教育委員等々を歴任。勲四等旭日小授章受章、国際水泳殿堂入りを果たしている。

競泳選手としてのモットーは「速く泳ぐより、綺麗に泳ぐ」。綺麗に泳げるようになると無駄がなくなり、おのずとタイムも早くなったという。

1955年、AIUを退職し、橋爪スイミングクラブを創立して代表取締役社長に就任。「古橋は選手を育てて金メダルを取るために水泳連盟に入り、僕は底辺を広げるためにスイミングスクールを開くことになるんだ」と語っている。

2009年8月の古橋の死去に際しては「水泳界はもちろん、スポーツ界にとって大きな存在だった。ヒロさんとともに競技できたことを誇りに思う。ご冥福を心からお祈り申し上げます」とのコメントを発表した。

柔道界では、無敵の山下康裕の残した「本当はロス五輪の後で引退しようと思っていた。でも、最後は斉藤の挑戦を受けてから引退しようと考え直した」との言葉に感激し、斉藤仁「こんな人に出会えた自分は幸せ」「山下さんがいたからこそ、それに向かう努力・研鑚というプロセスも生まれた」と感謝の言葉を述べている。同世代に天才・山下康裕という突出したライバルがいたたことは、斎藤仁にとってまことに不運であったのだが、実直に努力を重ね、不屈の精神で生涯にわたって研鑽を積み上げることができたことは幸いでもあった。

大相撲。山形県鶴岡の横綱柏戸記念館には「阪神柏戸、目玉焼き」という言葉があったのに驚いて笑ったことがある。大鵬は、目標であり、ライバルであり、友人であった柏戸に出会えて本当に幸せだったと述懐している。男性的な取り口で人気があり、「大洋・柏戸・水割り」という言葉もあった。

音楽分野。山本直純東京芸大の作曲科から指揮科に転じている。後輩の小澤征爾は後に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と言われたと語っている。山本は大衆の中に音楽を通じて飛び込んでいく仕事をライフワークとしたのだ。

山下康裕に対する斎藤仁、大鵬に対する柏戸というライバル関係、そして小澤征爾に対する山本直純にいたっては、水泳連盟に入った古橋広之進に対するスイミングクラブを創設した橋爪四郎と同じ軌跡をたどっている。どちらの仕事も必要だ。彼らは同世代に突出した天才がいたことの不運を幸運に変えた人々である。