『図解コミュニケーション全集』第2巻「技術編」の電子書籍を刊行。特別寄稿は野田一夫先生にいただきました。

『図解コミュニケーション全集』第2巻「技術編」の電子書籍を刊行。

昨年から刊行してきた「ディスカヴァーe-bool選書」の私の本では15冊目です。

 

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特別寄稿

「図解革命」進行中!       野田一夫(多摩大学名誉学長)

梅棹忠夫先生が雑誌『図書』に「知的生産の技術について」と題する連載を始められた頃から、早くも50年以上の歳月が流れようとしています。

読者からの予想外の反応に励まされた先生は、その後この連載記事の内容に綿密な補筆訂正を加えられた末に名著『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)を出版され、日本の知識人の間に大きな衝撃を与えました。

知識を効率的に獲得し、保持し、利用する…方法の開発といったことなど、明治時代(いやそれ以前)から多くの日本の知識人では、まともに検討されたことすらなかったからです。

先生のこのご本は、(全く皮肉なことに)大学を除く広い分野の知識人の間に絶大な影響を与え、考え方のみか実用の面でも豊かな実りをもたらしました。

たとえば、立てつづけにビジネス書部門のベストセラーの偉業を達成した久恒啓一君の「図で考える」発想と技術もまた、その起源を辿れば梅棹先生に行き着くのです。

場所を教えるには「地図」が、また事象の推移や比較を示すには「グラフ」が,言葉より遥かに有効な伝達の手段だということは誰でも知っています。

しかし、学術書から小説にいたるまで、膨大な文章の内容を理解するには「図解」が一番得策であるということを知っている人はごく少数です。いや、知っていても、技術としてそれを身につけている人は目下のところまずいないといっていいでしょう。

わが国を含めほとんどの国で,この技術を正規の授業で教えている学校がないからです。

このことに逸早く気づき、その技術を自ら開発しながら仲間を増やし、著作や講演を通じて地道に世間に訴えつづけてきたのが、久恒啓一君です。

僕が知り合ったのは、同君がまだ日本航空の広報課長をしている時でした。同君の初期の著作を読んだ僕は直ちに、何とかして同君を(冗長でへたくそな文章の論文や著作が氾濫している)大学の世界に招こうと決意しました。宮城大学の創設に当り、「事業構想学部」という前代未聞の学部設置を計画した時点で、日本航空のトップに直接お話しし、僕の決意は遂に実現したのです。

結果は上々。その後の20年を超える年月をかけた膨大な著作や多数の講演によって、日本発の「図解革命」は今なお進行中です。この「図解コミュニケーション全集」が完成すれば、「図解革命」の経典となるでしょう。

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目次

 

  • 1. 『図解の技術 表現の技術 知的生産のためのヴィジュアル情報学入門』:はじめに。第1章 これから図解を始める方へ。第2章 よいコミュニケーションは図解で。第3章 図解で理解する。第4章 図解で企画する。第5章 図解で伝達する。第6章 よりよい図解づくりのための10の心得。第7章 図解の表現のスキルを鍛える。第8章 図解はトレーニングでうまくなる。おわりに。
  • 2. 『図で考える人の図解表現の技術 思考力と発想力を鍛える20講』:はじめに。第1部 基礎編 図で考えるための図解表現 ――図解の基本スキルを学ぶ。第2部 実践編 図で考えると思考が深まる ――図解の「深さ」を味わう。第3部 応用編 図解は個性が出る表現法 ——図解の「広さ」を味わう。
  • 3. 『図で考える人は仕事ができる 実践編』:まえがき。第1章 理解力や実行力を高める。第2章 会議の効率をよくする。第3章 相手にうまく伝える。第4章 商談を円滑に運ぶ。第5章 仕事の生産性を上げ。。第6章 企画力を強くする。第7章 問題解決力や論理力をつける。第8章 事業構想を成功させる。第9章 PR効果を高める。第10章 魅力あるホームページをつくる。第11章 教育の現場に生かす。第12章 公共的な生活環境をよくする。あとがき。
  • 4. 『図で考える技術が身につく トレーニング30』:はじめに。第1章 図解の基礎を学ぼう。第2章 入門問題。第3章 基本問題。第4章 実践問題 。

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今日のヒント。国木田独歩『日の出』

「人はどんな場合に居ても常に楽しい心を持ってその仕事をすることが出来れば、即ちその人は真の幸福な人といい得る」

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0.9万歩。

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「名言との対話」1月23日。矢内原忠雄「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」

矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年明治26年〉1月27日 - 1961年〈昭和36年〉12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。

愛媛県今治市生まれ。東大学卒業。住友総本店に入社した。1920年国際連盟事務次長として転出した新渡戸稲造の後任として経済学部助教授に就任。欧米留学後、教授となり植民政策を講じた。 『中央公論』に発表した論文「国家の理想」の反軍・反戦思想が問題となり大学を辞職。第2次世界大戦後の 1945年 11月大内兵衛らとともに母校に復帰した。経済学部長、教養学部長を経て2期6年にわたり東大学総長をつとめる。学生時代より内村鑑三に私淑し、無教会主義キリスト教の指導者として聖書研究会、雑誌『嘉信』などを通じて平和を説き続けた。主著は『帝国主義下の台湾』 (1937) 、『南洋群島の研究』 (1935) 。死後『矢内原忠雄全集』 (29巻,1963~65) が刊行された。 (参考:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

矢内原忠雄『余の尊敬する人物』(岩波新書)を読んだ。BC7世紀のユダヤ人の預言者・エレミア、日蓮、リンコーン、新渡戸稲造に4人を紹介している。

私は日蓮の部を興味を持って詳しく読んだ。外国の侵入と国内の内乱を阻止するために、釈尊を忘れて阿弥陀仏を拝む浄土教を始めとする既成仏教を排撃し、正教の法華経に戻せと主張する。それが有名な『立正安国論』の主旨だ。執権の北条は日蓮を憎み、伊豆の伊東の川奈に捨てる流罪とする。それから9年後に蒙古からの使者がくる。鎌倉に呼びだされ激烈な言を吐き、死罪となるが、天地が鳴動し斬れない。次には50歳で佐渡に流され雪の中に捨てられる。日蓮は自己の使命を疑い、確信するという過程も告白している。そこに矢内原は共感する。日蓮は日本の柱、眼目、大船となろうという志を持ち続け、二度にわたる蒙古の来寇を予言した。日蓮は経文にあることのみ、その正法である真理を語った人である。

戦前に思想弾圧で東大を追われた経験のある矢内原は、日蓮の生涯に同情し、共感し、勇気をもらったのだろう。

それぞれの事績の紹介のあとに、「性格」という項目を設けて4人の偉人を論じていることに注目したい。エレミアは柔和、素直、純な人間、偽りのない人。リンコーンは、優しく、平明に、正しく、確固とした人。人はその人の性格にふさわしい生涯を送ると思っている私は、矢内原の「性格」論にも共感した。

また、エレミアと新渡戸については「晩年」という項目を設けて語っている。この岩波新書を書いたのは47歳。人生50年という言葉が重かった時代に、自身の晩年の過ごし方の参考にしようとしたのであろう。

新渡戸論の最後は「博士の残した精神こそ日本国民の最も必要とするところでありませう」である。日蓮論の最後は「長いものには巻かれろ」という思想的奴隷ではなく、真理を愛し畏む思想として日蓮という人物が日本にいたことは、私共の慰めであります」。日本と日本人へ向けてのメッセージを強く意識していたのだろう。

「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である」(1961年。NHK「子供のために」)。「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」(1961年。北大生への講演)。以上の言葉はキリスト者らしい言葉だ。「助けを求める人を助けよ」、は北海道大学で「内村鑑三シュヴァイツァー」という演目で学生たちに語った教育者、キリスト者としての言葉である。こういう人がいたことにも、励まされる思いがする。琉球大学附属図書館には、「矢内原忠雄文庫」がある。