「今どきの高校生」がテーマのトークライブ(大喜利方式))ーー「多様性」「人間関係」「学校」

「今どきの高校生」をテーマとした高校の先生たちのトークライブ。

大喜利方式(同じ質問にライブで答える方式)。司会は橘川幸夫。7人の教員。2時間。40人。


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質問

「何が違いますか」「親に言いたいこと」「好きな音楽」「かなわない子」「注目の教育機関」「不良はいるか」「恋愛事情」「校長になったら」「行事」「読書」「文科省に言いたいこと」「先輩と後輩」「部活動」「やりたいこと」。

私の感想は「3つのキーワード」

「多様性」:多様な個性。多様な進路。大学にいくことにこだわらない。

「人間関係」:ゲーム世代。ドライな付き合い。フラットな関係。

「学校」:限界。不信。学校のソト(地域)へ。柔軟な制度を。


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終了後、そのまま「深呼吸学部」へなだれ込む。

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朝はヨガで1時間。

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午後:古田隆彦先生の「人口波動学」の9回目講義。「平成享保」から「令和明天」、「○○化成」へ。

  • 個別波動の「過程循環」:始動。離陸。上昇。高揚。飽和。下降。
  • 前後循環:石器前波。石器後波。農業前波。農業後波。工業現波。?
  • 農業後波(1300年ー1800年。室町から江戸中期。3250万人):江戸元禄。享保(吉宗)。田沼時代(十大政策。実行力。官僚統制、献策重視の商業経済)。化成(家斉:情報社会、新知識、、木版、貸本、浮世絵、、、、)。工業現波へ。
  • 工業現波(1800年ー21世紀後半。江戸後期から21世紀への250年。1.28 億人):昭和元禄(福田)。平成享保(古田)。令和明天・○○化成(古田。2030年から、2050年-2080年。人口減少。コンデンス。ル・ルネサンス。モノコト産業化。6別化。IOT。生活原理の変化。リゾーム化・地下茎化・連合、、)。工業後波へ(2080年から23世紀。人口増加)。

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「名言との対話」3月5日。周恩来「改革といっても、革命といっても、自分から始める以外にない。」

周 恩来(しゅう おんらい、簡体字:周 恩来、繁体字:周 恩來、英語:Zhou Enlai、発音:チョウ・エンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日[1])は、中華人民共和国の政治家、革命家。

1917年日本に留学。919年、天津の五・四運動に参加。1920年フランスに留学し,、中国共産党に入党。帰国後、上海・南昌蜂起を指導。長征に参加後は毛沢東を補佐して国共合作に活躍した。1949年の中華人民共和国の建国以来、死去するまで国務院総理(首相)を務め、日中国交正常化などに力をつくした。
「建国の父」毛沢東より5歳年長の周恩来は「建国の母」といわれた。最古参の共産主義者として国民党との内戦を勝ち抜き、そして1949年の中華人民共和国の建国から1976年に死去するまで実に26年間首相を務めている。この間、文化大革命など様々の試練が襲うが、民衆の支持があり一度も倒れないから不倒翁と呼ばれた。新中国ではもう一人不倒翁と呼ばれた人物は改革開放路線を主導した蠟小平である。蠟小平は何度も失脚しながら最終的に起き上がるが、周恩来は一度も倒れたことがない。現在の中国は二人の不倒翁の敷いた路線によって羽ばたいているのだ。

周恩来は日本とは縁が深い。神田神保町の小さな愛全公園のなかに「周恩来ここに学ぶ--東亜高等予備校跡」と書かれた碑が建っている。周恩来には日本留学経験がある。19歳で日本に留学しこの予備校(初代校長・松本亀次郎)で日本語を学び大学進学の指導を受けるが、果たせず失意のうちに1919年に帰国している。『十九歳の東京日記』(小学館文庫)には1年数か月の青春の苦悩が記されている。あの優れた指導者も必ずしも順風な人生ではなかったのだ。
周恩来の若き日の姿を書いた本を二冊読んだ。周恩来は天津の南海学校を特等の成績で卒業した後、日本の東京高等師範や第一高等学校などを受験する神保町の予備校・東亜高等予備校に通う。しかし失敗する。日清戦争で日本が勝利した以降、中国からの留学生が増えていた。孫文(1899年)、魯迅と周作人(1902年)、陳独秀、郭末若などが日本留学組だ。

周恩来『一九歳の東京日記』(矢吹晋編・鈴木博訳:小学館文庫)を読んだ。1917年9月から1919年4月までの東京滞在日記だ。19歳で予備校に通っていた周恩来は1年7か月の滞日で挫折し帰り、それからフランスに留学する。1918年1月1日から失意のうちに帰国する1919年4月5日まで日記を書いている。「この日記は今日から書き始める。ただし、今日から一日も欠かさず記し、記念として残したい」と決意を述べている。「今後、この怠け癖を治さなければなるまい。」「まじめに勉強しなければ、どうして立派な人間になれよう!」「一日は睡眠7時間、勉強13時間、休憩その他が3時間半、、」「菜食、不婚の二大主義、、」「友に負け自分に負け、自暴自棄だ!悲しみにたえられない!」「官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」。革命か、勉学か。悩める若き周恩来の東京留学日記だ。神田、早稲田、浅草、日本橋大正デモクラシーの時代で、関東大震災の前夜だった。

『パリの周恩来』(小倉和夫)を読んだ。1920年12月から1924年7月までのパリを中心とする西欧滞在を描いた力作。1938年生まれの外交官・小倉は周恩来のヨーロッパでの跡を追い、幾多の書物を読み、若き周恩来に西欧体験が与えた影響を記している。「留学四年間に何を見、いつ、どのようにして革命家になったか。とう小平、ホー・チ・ミンレーニンが滞在したパリ、調査と研究十年、青年周恩来の行動と思想形成を追う。」。周恩来マルキシズムに触れる機会を持ったのは一年半の日本滞在の時だったと著者は分析しているが、「東京日記」にはそういう記述は見当たらなかった。

神保町の小さな愛全公園のなかに、「周恩来ここに学ぶ--東亜高等予備校跡」という碑が建っていた。1898年生まれの周恩来は1917年に19歳で日本に留学しこの予備校(初代校長・松本亀次郎)で日本語を学び大学進学の指導を受けるが。この碑は1998年の生誕百年、日中友好条約締結20周年を記念して千代田区日中友好協会が建立したものだ。日本語と中国語で書かれた説明では、ここで学んだ後に帰国し天津の南関大学に入学したとのみあるが、実際は1年半の日本留学で目的を果たせなかった。そのことは書いていなかった。
梅屋庄吉が映画事業で手にした巨万の富は、中国革命の支援と、孫文銅像の制作などで、きれいさっぱりなくなった。この銅像文化大革命の時に、孫文銅像が破壊されようとしたとき、信義を大切にする周恩来が「日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」と止めて難を逃れたことがある。

日中親善に大きな役割を果たした岡崎嘉平太へは「わが国は大変な損害を受けている。しかし、八十年は、日中二千年の交わりに比べれば僅かな時間だ」と語りかけている。

1972年の日中国交回復時には周恩来首相から、「水を飲むときには井戸を掘った人を忘れないと言う諺が中国にはあるが、岡崎先生と松本先生(松本重治)はその1人です」と感謝している。

新潟の田中角栄記念館で田中真紀子『角さんとじゃじゃ馬』(KADOKAWA)を買った。 角さんが家族だけみせた信条や、日常の部分に興味が湧いた。 「お父さんは、もう二度と生きて日本には帰って来られないかもしれない。日中国交正常化のために、一命を賭して北京へ行く覚悟をきめた」「いわば、天命だな」と語ったそうだ。これほどの大懸案を抱えた外交交渉に万一失敗したら、自分は議員を辞職すると考えていた。「お父さんは剃髪して出家でもしようかなと考えていたんだよ」と家族に後に語っている。周恩来総理夫人が日本の真紀子の自宅を訪問した時「夫の周総理は、田中角栄総理が相手でなければ国交回復は絶対に為し得なかったとしばしば私に語っていました。男同士が肝胆相照らしたんでしょうね」と語ったというエピソードも紹介している。

 周恩来は「銃で人を殺すのはたやすい。しかし暴力による闘いは肉体にしかおよばない。魂にまで到達することができるのは道理による闘いだけである」という。暴力ではなく、道義によって中国革命を成功させようとした周恩来は、自己を強化し自己を鍛え抜いていくことこそが大事であると信じている。全ては自分自身の問題だということを教えてくれる。

「改革といっても、革命といっても、自分から始める以外にない」は、周恩来の自立した人格と革命へ向けての気概を感じさせてくれる。