吉祥寺美術館(武蔵野市立)ーー「野田九浦」展。浜口陽三記念室。萩原英雄記念室。

秘書とのズームでの打ち合わせを終えて、武蔵野市立吉祥寺美術館を訪問する。

目当ては「野田九浦」展。子規に俳句を学び、漱石の小説の挿絵を描き、生涯にわたって「歴史人物画」をテーマにした人である。50年近くの年月を吉祥寺で過ごした。残念なことに図録は5月の連休後にできるとのことで、予約した。着いたら、じっくりとみてこの人のことを書くつもりだ。

常設の二つの記念室があった。浜口陽三記念室と萩原英雄記念室だ。訪問記念館が一気に3つ増えて嬉しかった。これで、994館だ。

浜田陽三の美術館は、日本橋の「ミュゼ浜田陽三ヤマサコレクション」だが、ここにもあったのかと嬉しい驚きだった。和歌山生まれの浜口はカラーメゾチントの創始者である。

木版画の萩原英雄記念室。甲府生まれの萩原英雄という人は知らなかったが、40歳という遅咲きで世に出ている。近代木版画の祖と呼ばれていて、木版画の世界を大きく広げた人だ。萩原英雄『美の遍路』(NHK出版)を購入し、帰りの電車と帰宅後の風呂の中で読み終わった。木版画もいいが、エッセイもいい。

野田九浦、浜口陽三、萩原英雄には共通項があった。それは3人とも没年が同じ91歳だったのである。1879年生まれの野田、1909年生まれの浜口、1913年生まれの萩原という芸術家たちは、それぞれ91年の人生を駆け抜けたのである。やはり画家たちは寿命が長いようである。

 


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思いがけず、記念館を3踏破したことになるので、「TRATTORIA  La Creatura」というイタリアンで気分よく食事。

その後は、井の頭公園を散策しながら、井の頭公園駅まで歩く。

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「名言との対話」4月21日。生田長江「ひややかにみづをたたへてかくあればひとはしらじなひをふきしやまのあととも」

生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、小説家。

鳥取県生まれ。一高、東京帝大で美学を専攻。大学時代に上田敏から「長江」の号をもらい、ペンネームとする。生田長江の生涯を眺めると、キリスト教自然主義白樺派批判、社会主義、仏教思想と、思想遍歴に満ちている。以下、業績を俯瞰する。

「ニイチェ」の翻訳は、1916年から1929年にかけて全10巻を刊行した。1922年からは『釈尊伝』の創作を開始し、1935年に「上巻」を刊行した。1936年にかけて『新訳決定普及版 ニイチェ全集』全12巻を刊行。

評論分野では、ニイチェ語録。最近の小説家。芸術家と芸人。徹底的人道主義。反資本主義。東洋人の時代。、、、、

翻訳では、カーネギー。ニイチェ。フロオベル。ヘエテ。ワイルド。トルストイツルゲーネフ。、、、

啓蒙書も多い。外国文学研究法。英独学習法。トルストイ語録。論文作法。能率増進の実際。、、、、、

生田長江全集は、12巻の予定だったが、5巻で中断している。

生田長江ハンセン氏病であり、1934年には失明したというハンディも負っていた。これだけの思想遍歴と仕事をしたのだから、敵も味方も多かったに違いない。「自分の前に敵が”いっぱい”現れた時は、振り返って見よ。味方が”いっぱい”いるものだ」という観察には納得する。

「書籍は社会的大学なり、、、読書人の無限の欲望を充足たし、又高遠の理想を全国に普及することを得べし」とする志の「現代名著文庫」で『哀史』という生田長江の小説を手にした。」この序は堺利彦が書いている。生田に脚本を書く機会を与えた堺利彦は純芸術的であった生田に不満があり、俗化を、社会化、実用化、戦闘化と社会主義の立場から喜んでいる。
純良な少年が新平民という血統で差別を受け、あらゆる罪悪を犯し、その前科で堕ちていくいくという物語である。筆さばきもうまく、引き込まれる。生田の才能の一端を見た思いがする。
荒波力『知の巨人 生田長江』がある。なるほど、あるゆる分野に精通している生田長江は、知の巨人だ。戒名が「聖伝院長江棹舟居士」となった。長江という大河を掉さしながら、世界中の聖人の伝記を書いた人という意味だから、納得する。長江は中国の揚子江のことである。アマゾン、ナイルと並ぶ大河である。青海省チベット、山峡、江西省そして上海にいたる。途中には、工業都市商業都市が並び、19の省をまたぎ、4.5億人のの人口を抱える交通路だ。
なるほど、上田敏が「長江」という号を与えたのは慧眼であり、その後の生田の進む道を予言している感がある。さすがだと感服した。その命名どおり、人間社会の山岳、平野、都市などを踏破し、多くの人に影響を与えた、長江のごとき生涯であった。
「ひややかにみづをたたへてかくあればひとはしらじなひをふきしやまのあととも」という生田長江の歌も、長江という大河と自身の人生を詠んだとも思える。