知研セミナー:ゲストは伊藤松男さん、テーマは「超高齢社会の展望と人生100年時代の生き方

 

 


以下、参加者の学び。

  • 知研・岡山前会長の伊藤松郎さん、貴重なお話をありがとうございました。前半部の知研・岡山の歴史を通して、充実した活動内容、豪華なゲストについても昭和~平成~令和に至る「知的生産」の過程が理解できました。後半の人生100年時代に関するデータを用いた解説は、非常に有益なお話であり、ライフサイクルの変化とライフプランの必要性についても、慧眼なお話であり「健康を害すると社会参加ができなくなる」というお言葉にはハッとさせられました。人間いつまでも若くはないけれども、はりあいを持って生きること、いくつになっても夢や目標、志を持っていくことで充実した長寿を迎えられるのだ、という内容には非常に納得感がありました。「三人称の生きがい」共生社会を創るというお話も貴重でした。報道などではどうしても老化は、ミーイズムに陥った独居老人、孤独な老後に対するネガティブな文脈で語られますが、そうではなく、4つの自立(生活的、精神的、社会的、経済的)を踏まえ、自分の人生を大切にしようと感じました。お忙しい中、貴重なお話を重ねて感謝いたします。
  • 伊藤様:本日のセミナー、非常に参考になりました。有り難う御座います。人生100年時代を生きるための多くのヒントが得られました。生き甲斐を持つことが、長寿の秘訣という事で、確かにそのように思えます。私はFacebookの投稿で多くの方と意見を交換し、色んな考え方の人がいることを再発見致しました。伊藤様のセミナーで話されたの人との触れあい大事さを再認識致しました。
  • 伊藤様、本日は知研岡山の凄さを知りましたま。 25年も継続している事は、驚きました。私も同じ時期に福岡支部が2年目に入り、岡山支部の立ち上げに参加した事を思い出しました。人生100年,残り30年以上ありますので、水素水を飲みながら、運動し知研で、社会との繋がりを維持していきます。 本日はありがとうございました。
  • 伊藤さんのセミナーで特に参考になったのは、「役割があると健康度が上がる。 うつになる確率は1/7」 「孤食の死亡リスクは1.5倍」の2つで、今後の活動に活かしたいと思います。
  • 『知研・岡山ってなに??』と訊かれたら月に1回の大切な日【知的好奇心旺盛な仲間の居場所】です♪と応える!私も3月で75歳になりました。これからも「ワクワクを探します。」これからが『輝く人生へ』
  • 本日は知研・岡山の伊藤松郎さんのお話を大変興味深く伺いました。ありがとうございました。前半の知研・岡山の活動のご紹介では、「出会い」を大切に、多彩な講師の方々をお招きして交流会を重ねて来られた会の歴史に感銘を受けました。また後半の「超高齢社会の展望と人生100年時代の生き方」では、健康生きがいづくりのポイントとして、第三者との関係において生きがいを感じる「三人称の生きがい」が特に大切とありましたが、フレイルを予防するうえでも「社会参加」ということが挙げられており、知的生産を通じた社会参加は、人生100年時代の幹となるライフスタイルのひとつであるとの思いを強くしました。私自身、ちょうど人生の二幕目に入ったところでしたので、学ぶところが多く大変参考になりました。ありがとうございました.
  • 本日は知研・岡山の伊藤松郎さんのお話をお聞きし、大変参考になりました。                  知研・岡山の活動の歴史を知ることができ、取り組まれた一つ一つの活動が素晴らしく、深く感銘を受けました。 また25年間も続けて来られたことも、大変価値がある会だと思いました。伊藤さんのお話を聞いて、知研・岡山に参加することで楽しく生きがいになり、心身ともに健康になり、交流会の恩恵は、たくさんあると思いました。 柳生家家訓の格言は、とても印象に残り、毎日の生活で実践していきたいと思いました。       伊藤さんの人生100年時代の生き方についてのお話では、毎日をはりあいをもって生きることの大切さや第三者との関係において生きがいを感じたり、共に社会を創っていくことの大切さを知りました。 人生100年時代を意識して、人生を明るく楽しく知的な人生が送れるよう、心掛けて毎日を過ごしていきたいと思います。 感想の時間では、参加された方のご意見やお考えを聞くことができ、学んだり、共感できる点が多く、大変、参考になりました。 素晴らしいセミナーに参加し、楽しく有意義な時間を過ごすことができ、感謝しております。ありがとうございました。
     
     
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「名言との対話」4月22日。横山エンタツ「自分には芸の力がない」
横山 エンタツ(よこやま エンタツ1896年4月22日 - 1971年3月21日)は、大正・昭和期の漫才師俳優
兵庫県三田町横山の生まれ。1928年頃、「横山エンタツ」を芸名とする。姓は出身地の横山。当時住んでいた蔵前の東京高等学校の煙突のようい、やせた風貌であったことから、「エンタツ」とし、横山エンタツとなった。エンタツは、大阪の煙突(エントツ)のなまりである。花菱アチャコと組んで漫才を始めた。従来の和装と鼓の音曲を用いた萬歳と違って、2人の背広姿のテンポのいい会話だけで構成した舞台は「しゃべくり漫才」と呼ばれ、サラリーマンを中心に人気があり、わずか3年9カ月のコンビであったが、一時代を画した。
「漫才」のテーマは、「早慶戦」、「僕の家庭」、「親と子」など、当時の世相や話題などの新しいネタが多かった。私も子どもの頃、「エンタツアチャコ」の漫才をラジオやテレビで楽しんでいた。この二人のコンビは近代漫才の祖である。
エンタツは、低俗で下品な万歳を嫌い、新聞などをヒントにした時事ネタを盛り込んだ漫才をつくった。エンタツアチャコは会話だけの新しい「漫才」をつくったのだ。「きみ」「ぼく」という標準語の会話、背広姿などは新鮮だった。二人のインテリ万歳はサラリーマンに人気がでる。ちょび髭を二本指で押さえ、「ハッハー、照れくさー」というギャグだった。エンタツは「ボケ」、アチャコが「突っ込み」の役割だった。エンタツの弟子の一人が、漫才師から大阪府知事になった横山ノックである。吉本興業の座長をつとめた花紀京は次男だ。ラジオ時代の幕開けにもあたり、エンタツアチャコのコンビは人気は全国的になっていった。
プロ野球より人気のあった早慶戦の見物を扱った「早慶戦」、東京・横浜・名古屋・京都、そして大阪の繁華街の描写から始まる「親と子」、東映の「エンタツアチャコの人生は六十一から」、食堂で働く同僚のとしての演技、また霧島のぼる相手のコントなどの音声や動画をみてみたが、なかなか面白い。
戦後は、NHKラジオで「エンタツ」の冠をつけた番組をもっており、お茶の間を楽しませている。相棒のアチャコは戦後、スターダムにのし上がっていく。漫才時代はエンタツが売れていたが、舞台・テレビ時代はアチャコの独壇場になった。「天才」といわれたエンタツも活躍したが、アチャコとは差がついていく。次男の花紀京には「自分には芸の力がない」と本音を語っていたそうだ。芸人の栄枯盛衰はよくみるところだが、2人で一組の漫才は、かならずどちらかが上になっていくから、世間も目も厳しくなりし、売れなくなった方の心にも微妙な影を落とす。芸人の世界も厳しいものがある。
2人が始めた近代漫才は、現代の漫才ブームに続いている。現在では落語よりも下に見られていた漫才は、地位を確立し、芸能人を輩する宝庫になった感もある。伝統のある芸を改革し、新しい分野を築いた横山」エンタツの功績は大きなものがある。