本日、7月25日の日経新聞に『久恒啓一図解コミュニケーション全集』第一巻の広告
。見本ができたばかりなので、書店には8月上旬に配本される。
本文の冒頭の寺島実郎さんの推薦文は以下。それの一部を使って表紙に載せている。
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久恒啓一氏の「図解コミュニケーション」の本質
「図解」は知的生産の技術の柱であり、この体系化と深化に久恒啓一氏はライフワークとして取り組んできた。その集大成がこの全集である。
私は久恒氏と40年近い年月にわたって親交を深めてきた。
彼の人生の前半はビジネス現場でコミュニケーション能力を磨くことに集中し、所属企業の改革に実績を挙げた。
後半は大学の教壇に立って後進に図解による意思疎通の高度化という実学を教えるとともに、大学経営に図解を持ち込んで成果を挙げた。
そして、一貫してNPO法人知的生産の技術研究会の中心的リーダーとして、社会人の知の再武装とその社会的実装に心を配ってきた。
この全集の意味は、論点を図解する技術論にあるのではなく、図解によって意思疎通を深め、時代の課題の解決のために行動しようという愚直なまでの情熱にあることに気付く。
一隅を照らす人生に、こういうアプローチもあるのかと心が熱くなる。
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強調すべきところが違うなあ。
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「名言との対話」7月25日。花菱アチャコ「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」
花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日 - 1974年7月25日)は、大正・昭和期の漫才師、俳優である。
実家から何度も養子に出されたり、小学校を途中でやめさせられて、父親からも勘当されるなど、苦労が絶えなかったが、役者に興味があり、これも紆余曲折を経験している。役者には不向きであることを自覚し、大柄な体と取り柄のない顔を喜劇で生かすことになり、17歳で転向する。
1926年、落語にかわる演芸を探していた吉本興業に入社し、1930年に横山エンタツとふたたびコンビを組む。まだプロ野球がない時代に人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博した。
正月を祝うのが「萬歳」だった。太夫と才蔵の二人組が正月に家をまわり踊りなどを披露する芸だ。明治時代中期に、近代万歳の祖・玉子屋円辰が祝い事の要素を排除した演芸としての「万歳」を始める。歌や踊りの間に「喋り」が入るのが普通だったが、天才エンタツは、低俗で下品な万歳を嫌い、新聞などをヒントにした時事ネタを盛り込んだ漫才をつくった。エンタツ・アチャコは会話だけの新しい「漫才」をつくったのである。「きみ」「ぼく」という標準語、背広姿など新味を出した。二人のインテリ万歳はサラリーマンに人気がでる。ラジオ時代の幕開けにもあたり、エンタツ・アチャコのコンビは人気は全国的になっていく。
アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えている。1952年に長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化され、アチャコはスターになっていく。漫才時代はエンタツが売れていたが、舞台・テレビ時代はアチャコの独壇場になった。
テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期に「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」の台詞で一世を風靡した。このセリフは私もよく覚えている。久しぶりに二人の漫才をユーチューブで聴いたが、話題がどんどん変わっていく。テンポがいい。
資料を調べるとアチャコの生涯は有為転変、波乱万丈である。その中をしぶとく生き残っていく。現代に続く漫才の創始者の一人となったアチャコはドケチで有名で財産も築いた。そして最後は喜劇界の大スターにもなった。辞世の句は「負けはせぬ、夢は舞台で見得をきり」だった。