「幸福塾」の7回目。総論③のテーマは「凡人・凡夫・平凡」

「幸福塾」の7回目。総論③ 凡人・凡夫・平凡。

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以下、塾生の学びから。
  • 久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。まず印象的だったのは、冒頭の、人物記念館があと5館で1000館に達する、ということでした。17年間にわたる「継続は力なり」と一言で言うにはあまりにも巨大で圧倒されます。今西錦司先生の登山の記録も驚きです。今回は幸福論の中で公人・私人・個人の交わった総論の3回目、「凡人・凡夫」というキーワードでの幸福論、名言。17名が紹介されていましたが、なるほどこういうくくり方もあるのだな、と発想の豊かさに感心しました。聖徳太子でさえも自らを凡夫と称していること、岩田弐夫の平凡の凡を重ねていつか非凡になるということ、など多くのことを学びました。また、親鸞のように72歳から著作を始めた遅咲きも遅咲きの生き方なども励みになりました。今回は余裕がなく幸福に関する記事なの紹介ができませんでした。しかし、岩田弐夫のエピソードで、社長になっても毎日1時間の原書を読んでいたというのを知り、余裕がないと言い訳したことを反省した次第です。
  • 久恒先生、みなさま、幸福塾ありがとうございました。本日は倖せの構造「総論」の3回目「凡人・凡夫・平凡」というテーマで偉人の言葉をたくさんご紹介頂きましたが、中でも印象に残ったのは岩田弐夫の「平凡の凡を重ねよ。いつかは非凡になる。」という言葉でした。韻を踏んでいるような語感で、励まされる感じもあり、とても良い言葉だと思いました。また、思わず苦笑いしてしまったのがロマン・ロランの「英雄とは自分のできることをした人だ。一方凡人とは自分のできることをしようとせず、できもしないことをしようとする人だ」という言葉。とても英雄にはなれませんが、かといってロランのいう凡人になるのもつらい。ときどきわが身を正す言葉として忘れないようにしたいと思います。谷川俊太郎の「長続きする幸せは平凡な幸せだ。」という言葉には、何かほっとするものがあり、「幸せは退屈だ」という言葉にも納得感を感じます。締めの川柳「凡人という凡人でない証拠」(岸本水府)も含めて、「凡人」「平凡」の奥深さに大いに感じ入った次第です。後半の発表ではアインシュタインの「私は天才ではありません。ただ、人より長くひとつのこととつき合ってきただけです。」という言葉を挙げさせていただきましたが、「平凡」との対比で「天才」「非凡」に関する感想等も頂き、大変興味深く伺いました。ありがとうございました。
  • 久恒先生、みなさん、本日もありがとうございました。倖せの構造「総論」の3回目、「凡人・凡夫・平凡」がテーマでしたが、まず、久恒先生の「人物記念館の旅」が17年目になり、もうすぐ1000回になることが凄いと思いました。お話にもあったとおり、何事も100回続けることから始まるそうですが、1000回継続することというと千日回峰行を思い浮かべるくらいで、「平凡」とはかけ離れた偉業だと思いました。その後、ご紹介のあった偉人たちの言葉。「幸福とはひどく平凡なことの中にある。」とか「長続きする幸せは平凡な幸せだ。」、「偉業は凡人の修養の結晶物、大業はその偉人の努力の結晶物である。」とありました。偉人から「平凡、凡人」と言われても、私からするとそのレベルが違うなぁと驚くばかり。幸せの奥深さを改めて感じた次第です。
  • 本日もありがとうございました。倖せの構造の、総論の3回目。「凡人・凡夫・平凡」が本日のテーマでした。ご紹介いただいた方々で、自分を凡人と思っていると努力を惜しまず、努力や修練をされていて、非凡になっていく。また自分が非凡なのに気が付かず努力し続ける方々ばかりでした。また、逆に、凡人とは考えず、違うことをし、谷崎潤一郎のように、自分を凡人だと思うことはできぬ、天才をもっている気がする。など、言霊というか、イメージを持ち、非凡となっている方々を紹介いただきました。自分がどう考えるか。性格によるところが大きいと思います。最後の先生からのまとめのことば。岸本水府「凡人という凡人でない証拠」。みんなそれぞれ。優れた点、変わった点を持たない人なんていないのではないかと思いました。みんな凡人だけれど非凡。非凡だけれど凡人。それぞれ素敵。努力や修練をしている。そう思いました。本日は、みなさまから、何本か、映画も紹介していただきました。『Coda コーダ あいのうた』良いですね。ゴールデンウィークもすぐそこですし、いろいろな気づきを体感できるとよいなと思います。次回もよろしくお願いいたします。本日ご紹介したのは、小倉昌男さんの「みんな幸せになるために自分が存在したい」です。
  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回もまた、刺激気付き羞恥反省の時間を過ごさせてもらいました。先生の「人物記念館の旅」1000回目の訪問先、楽しみにしております。どちらに行かれるのか?今回の講義で印象の特に残っている言葉が「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を言う」でした。自戒の念を持って聞きました。また、「15年続ければ新しい人生が」でした。今後の人生を考えると、今日が一番若い日なので、今日からチャレンジをと思ってます。先生はじめ皆様からの刺激を栄養にしていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。朝投稿したつもりが、できてなかったようなので、改めて送ります。
  • 成瀬巳喜男監督の映画「幸福だなんて、ハイカラなこと」「私の大好きなおかあさん、幸福(しあわせ)ですか」『稲妻』(1952年 大映 林芙美子原作)母親と異父四人の子(村田知栄子、三浦光子、丸山修、高峰秀子)の物語。三女高峰が母親の浦辺粂子に「お母ちゃんはね、四人もの人と結婚したんでしょ、幸福だった、それで」と問い掛けると、浦辺は「幸福だなんて、ハイカラなこと」って言う。幸福というようなハイカラなことは、この母親が日々生きていくこととは無縁。昔の日本人は幸福ということは考えなかった。幸福というのはハイカラ(新しい high collar)な概念だった。淀川長治は、ヤルセナナキオの別称のある成瀬のことを「いやよ、あんな貧乏くさい監督」と言っていた。山田さんがご紹介した成瀬の『おかあさん』(1952年 新東宝 「森永母を讃える会」選定「全国児童綴方集」原作)も貧乏を描いていますが、明るくて暖かい愛情に満ちた家庭を描いた映画です。預かっている妹の男の子と敷いた布団の上で相撲を取っている母親(田中絹代)に長女(香川京子)が、「私の大好きなおかあさん、幸福(しあわせ)ですか」の語りでこの映画は終わります。1955年にフランスで上映され、パリ下町の人情劇に繋がる風情があり今でも人気があります。
 
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昼食は、橘川さん、多摩大の松本先生、そして吉田和夫さん。
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「名言との対話」4月27日。小菅丹治「主人と使用人は分け隔てなく同じものを食べることだ。また店員に失敗があっても、ガミガミと叱ったりせず、できるだけにこやかにしていることだ」
小菅丹治2代目(こすげ たんじ 1882年4月27日〜1961年9月16日)は、経営者。

東京外神田の「湯島聖堂」の隣の丸和ビルの2界の「企業家ミュージアム」(市川覚峯代表)がある。英語では、Company Spirit  Museum となっている。日本の起業家たちの魂を継承しようという趣旨である。そのホームページには、初代の小菅丹治について次のように紹介されている。

「神奈川県の農家の次男に生まれた小菅丹治は、十三歳で東京の湯島天神近くにあった呉服店「伊勢庄」に奉公に上がった。厳しく苦しい修業が続くが、丹治は歯を食いしばって耐え、二十八歳で独立、神田明神下に小さな「伊勢屋丹治呉服店」を開いた。丹治は店員と共に汗みどろになって働いた。また、店員にはいつもやさしい思いやりをかけていた。 日々の食事は、ほかの店では最初に主人が食べ、その次に番頭、手代、丁稚といった具合に順番が決まっていたが、丹治の店ではみんなが一緒に、なごやかに談笑しながら食べた。しかも主人も使用人も、全く同じものを食べた。 また店員が、一生懸命やって失敗したことなら、いろいろと話して聞かせるが、決して叱ったりはしなかった。企業が伸びるか否かは、いかに人を大切にするかどうかにかかっていると丹治は語っていた。伊勢丹の人事管理の基本には“人間尊重”にある。これは初代小菅丹治が創業時につくりあげたものである。伊勢丹は今でも人間を大切にし、働きやすい職場をつくりあげるという考え方が継承されている。」
伊勢丹は新宿が本店で、ファッション性の高い衣料品の提供で、ファッションミュージアムとも呼ばれ、中高年と若い世代にも人気がある。1968年にはジンクスを破り、メンズ館が成功した。百貨店事業を中心に、7700億円の売り上げがあった。2008年に経営危機に陥った三越を救済する形で、経営統合し、三越伊勢丹ホールディングスとなった。多摩大でも講義をしてもらった大西洋さんが2009年から2011年まで社長を務めたので、私にもなじみがある。

伊勢丹」は、伊勢屋丹治呉服店をつづめたものだったことを初めて知った。伊勢丹の「店祖」の小菅丹治という名前は、代々が名乗っているという。調べると、2代目は、初代小菅丹治の長女の婿で、高橋儀平が名前を変えている。1930年から1960年まで社長をつとめている。3代目は、2代目の長男の小菅利雄で、同じく小菅丹治を名乗っている。

初代の精神である「主人と使用人は分け隔てなく同じものを食べることだ。また店員に失敗があっても、ガミガミと叱ったりせず、できるだけにこやかにしていることだ」は、2代目も継承したことだろう。

このように企業の経営者は、同じ名前を代々が使うということがある。人間は変わっても、人格や思想は一貫しているということなのだろうが、これは興味深い方法だ。それを実現するためには、日本の特徴である養子制度が貢献している。商家では娘が生まれると喜ぶということがあった。奉公人の中から優れた人を婿に迎えることで、家が安泰になるからだ。日本の家は法人という考え方であり、ときどきのトップは実子でもいいし、養子でもいいというから長く存続することができた。明治維新で「株式会社」が入ってきたが、それは今までと同じだったから、スムーズに資本主義が導入されたのだ。創業者の名前をずっと継承している企業を調べてみよう。また、企業家ミュージアムも訪問したい。人物記念館1000館達成後の活動のヒントになるだろうと思う。