ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の第10回目は「人物記念館1000館」の後半。

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NHKカルチャーラジオ日曜カルチャー「人間を考えるーー「今」学ぶということ」。以下の2人講演がよかった。

高橋源一郎(作家)

鴻巣友季子(翻訳家)

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「名言との対話」7月16日。ロアール・アムンゼン「僕は行動の最中に死にたいものだ」

ロアール・アムンセンRoald Engelbregt Gravning Amundsen [ˈruːɑɫ ˈɑmʉnsən] ( 音声ファイル), 1872年7月16日 - 1928年6月18日前後)は、ノルウェー探検家

アムンゼンは少年時代から探検家になろうとし、スキーを練習し、野外生活で体を鍛え、学術探検隊に参加するなどの準備をする。そして大学では海洋学、気象学、磁気学を学んだ。そして満を持して探検の世界に入っていく。

北西航路1903年グリーンランドとカナダの間を通り、アラスカ、ベーリング海峡を経て東洋へ到る最短航路の航行を47トンの小型船で5人の乗組員を率いて成功した。

南極探検。1911年。当初は北極探検隊として出発したが、他の探検隊が北極点に到達したという情報を知り、急きょ目標を南極に切り替えた。イギリスのスコット隊とのし烈な競争に勝利した。アムンゼン隊は犠牲者はいなかった。

日本の白瀬隊もライバルだった。ノルウェーアムンゼン隊、イギリスのスコット隊は国家的な支援のもとに決行されたのだが、白瀬隊は後援会長・大隈重信等の協力のもと国民の義援金で支えられていて、船も装備の貧弱だった。このため遅れをとった。

北東航路北ヨーロッパから北氷洋、ベーリング海峡、アラスカへの航路を800トンの船で9人の乗り組み員と2年かけて調査。

北極探検飛行。1925年。2機で出発。他の1機の故障で乗組員を収容。氷上に500mの滑走路をなんとか完成させ、帰り着いた。

北極横断飛行。1926年。飛行機でなく飛行船ノルゲ号を採用。5月12日午後1時30分に北極点に到達。テラー岬まで飛行距離4100キロ、飛行時間は71時間であった。

アムンゼンはかつての同志ノビレ少将の北極探検の遭難の救助に向かい、海中に墜落し遭難した。

アムンゼンは「僕は行動の最中に死にたいものだ」と語っていたのだが、救助の最中に55歳で亡くなってしまう。探検の最中ではなかったが、本人の希望通りの死に方だったといってよいだろう。

「準備10年成功5分」を信念としたアムンゼンは人類史上南極点・北極展の両方へ到達した極地探検家である。今なおノルウェーの国民的英雄であり続けている。

「世界探検物語」(新潮社)の豊島与志雄「北極のアムンゼン」を読んだが、私は子どもの頃に、アムンゼンとスコットの南極一番乗りの競争の物語をワクワクしながら読んでいる。アムンゼンは、北極も征服していたことを知った。

20世紀は探検の時代であった。南極、北極という地球の極点、地球最高峰のエベレストなどが、数々の物語を生みながら征服されていった。

日本の白瀬矗は11歳の時に寺子屋の師匠・佐々木節斎から「お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」。そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせる。そして南極探検を志した白瀬に5つの戒めを言い渡す。「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」。白瀬はこの戒めを生涯にわたって守った。アムンゼンも若い頃から同じように自らを鍛えていたのだ。

20世紀、多くの英雄が生まれたが、その中でもアムンゼンの業績は群を抜いている。英雄中の英雄であった。

 

参考:「世界探検物語」(新潮社)の豊島与志雄「北極のアムンセン」(青空文庫