グローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。

神奈川近代文学館宇野千代展」。雨に打たれた紫陽花が目にとまった。

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 『文芸春秋』7月号。ラインナップと企画が充実している。

文藝春秋2017年7月号[雑誌]

文藝春秋2017年7月号 作者:立花隆,塩野七生,佐藤優,浅田次郎,船橋洋一,小池百合子,池上彰,野田秀樹,糸井重里,鈴木敏夫,綿矢りさ,外山滋比古,益田ミリ 出版社/メーカー: 文藝春秋

 ・塩野七生マクロンフランス大統領「自分でリスクをすべて負う態度。会う人々を巻き込んでいく才能。右派もなく左派もなく政治があるだけだと主張」

・前川喜平「わが告発は役人の矜持だ」

森功「加計が食い込んだ下村元文科相夫妻「政治主導という美名の下、強固な友だちサークルの絆が巨大な権力を握り、官僚を震えあがらせ、これまで築いてきた日本の行政システムを蹂躙している」

小池百合子「私の政権公約」:「東京大改革の一丁目一番地は情報公開」「北欧並みを目標に、ICTを活用した情報航海をさらに徹底していきたい」「新しい東京のキーワードは未来への投資」「東京も2025年をピークに人口が減少。ここ数年が勝負」「世界ランキング1位を掲げている」「健康長寿を誇れる街に」「快適通勤プロモーション協議会」「負の遺産の整理」「多摩島嶼部のブランド化」「パラリンピックの成功」「マクロンに注目」「候補車の35%は女性」

二階俊博「すべての疑問に答える」:日中首脳のシャトル外交。

石破茂「安部改憲案 読売新聞には驚いた」

森功「フジ日枝久独占告白 社長交代劇の内幕」

外山滋比古・加藤恭子「90歳?年齢なんか忘れなさい」:「年齢の話は話題のない人がする」「上りはエスカレーターでも下りは階段」「専門に閉じこもらずに、新しいことに次々と挑戦していつも新人の気持ちで」「面白いことに夢中になって年を忘れているうちに死ぬ。これが一番」

・大型企画「わたしの師匠」:野田佳彦夫婦円満の秘訣は誉めあうことだ(松下幸之助)」。村木嵐:司馬遼太郎「毎日、日記をつけなさい」「小説は、文章の上手い下手ではなく、構成力が大切だ。いつもお腹の中で考える癖をつけなさい」「どんな作品を書くか本人にもわからないし、ほかの作家にもわからない。わかってしまうと、三島由紀夫のように自殺するしかないからね」鈴木敏夫徳間康快:「日記」。「人は見てくれだ。中身じゃない」

・第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞:森健「小倉昌男 祈りと経営」。

 

「副学長日誌・志塾の風」170613

湘南キャンパスのグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。

・大学戦略会議・大学運営会議。自己点検ヒヤリング。再任。共同研究費・共通教育費。後援会総会。ふじさわ産業フェスタ。(名桜大学への長期留学。保健室とカウンセラー。短期留学はロンドン・カリフォルニア・ハワイ中心)

・入試:9月入学。就職:障害者向けガイダンス。在日米軍施設。教務:ホテルセミナー。学習支援室。学生:離学率のデータ。研究:科研費勉強会。

 

「名言との対話」6月13日。白瀬矗「「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」

 白瀬 矗(しらせ のぶ、文久元年6月13日1861年7月20日) - 昭和21年(1946年9月4日)は、日本陸軍軍人南極探検家

ノルウェーアムンゼン隊、イギリスのスコット隊は国家的な支援のもとに決行されたのだが、白瀬隊は後援会長・大隈重信等の協力のもと国民の義援金で支えられていて、船も装備の貧弱だった。このため遅れをとった。

11歳の時に寺子屋の師匠・佐々木節斎から「お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」。そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせる。そして南極探検を志した白瀬に5つの戒めを言い渡す。「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」。白瀬はこの戒めを生涯にわたって守った。

 「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐ進むべきものである。」

「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切り揃えた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到の堺を跋渉したい」

1990年開館の仁賀保市金浦町の白瀬南極探検隊記念館は、建築家の黒川紀章の作品である。中央の円形の池に配置された円錐形の形態と、それをとり囲むように配置されたドーナツ形の形態によって構成されている。

南極探検後、帰国した白瀬は4万円(現在の1.5ー2億円)の負債を一人で背負うことになる。この返済のために全国行脚の講演を行って全額を返済するのだが、極度の貧乏生活を送っている。「恵まれぬ 我が日の本の探検家、パンを求めて処々転々」とは悲しい歌である。辞世の歌は「我なくも 必ず捜せ南極の 地中の宝世にいだすまで」であった。1955年にベルギーで開かれた国際地球観測年に関わる南極会議で、当初は反対が多かったが、日本は白瀬隊の実績を述べて南極基地を設けて観測に参加することができたのである。「何とでも言え、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)というものは、雲か霧のようなものだ。山が泰然としていれば、雲や霧が動いたとて、何ほどのことがあろう。やがて晴れる時が来るに違いない」と語っていたように、白瀬の志は死後に実ったのだ。