ユーチューブ「遅咲き偉人伝」第12回目は「やなせたかし」ーー「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」第12回目は「やなせたかし」。

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やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家詩人。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

「何のために生まれてきたの?」(PHP)を読んだ。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

 

 

 

「名言との対話」7月25日。島津源蔵「事業の邪魔になる人。家庭を滅ぼす人」

2代目島津 源蔵(しまづ げんぞう、明治2年6月17日1869年7月25日) - 昭和26年(1951年10月3日)は、明治時代から昭和時代にかけての実業家発明家

京都出身。島津製作所創業者の島津源蔵の長男。1894年に父の死で二代目を襲名し事業を継承した。1895年、人体模型などの標本を製造、販売。1896年、日本初のX線写真を撮影し、1897年には教育用X線装置を商品化した。

鉛蓄電池を改良したGS蓄電池(島津源蔵の頭文字)は日露戦争巡洋艦和泉が、日本海海戦信濃丸から「敵艦見ゆ」の第一報を受けて、旗艦三笠に送信した。「皇国の興亡」にあたり重要な役割を果たしたのだ。

島津製作所の発明から誕生した組織は多い。X線技術は京都医療科学大学を生んだ。発明した亜酸化鉛からつくった防腐剤を扱う大日本塗料が独立した。電池を動力とした輸送機を製造する三菱ロジスネクスト株式会社。「蓄電池の父」とされる島津源蔵は会長職を引退後も発明に専念している。生涯の発明は178件にのぼる。1930年、日本の十大発明家として真珠の御木本幸吉らと宮中晩餐会に出席している。

2007年に、京都の人物記念館を訪問した。末川博、大河内伝次郎新島襄河井寛次郎橋本関雪などをみたが、そのとき、島津製作所の創業記念資料館でを訪問した。2002年にソフトレーサーによる質量分析ノーベル化学賞を受賞した島津製作所田中耕一さんの資料の展示もみることができた。島津源蔵の発明の伝統は生きているのだ。

この資料館で面白い言葉を見つけた。二代目島津源蔵の訓語である。

「事業の邪魔になる人」:自己の職務に精進することが忠義である事を知らぬ人。共同一致の融和心なき人。長上(目上)の教えや他人の忠告を耳にとめぬ人。恩を受けても感謝する心のない人。自分のためのみ思い、他人の事を考えぬ人。金銭でなければ動かぬ人。艱難に堪えずして途中で屈伏する人。自分の行いについいて反省しない人。注意を怠り知識を磨かぬ人。熱心足らず実力なきに威張り外見を飾る人。夫婦睦まじく和合せぬ人。物事の軽重緩急の区別の出来ぬ人。何事を行うにも工夫をせぬ人。国家社会の犠牲となる心掛のない人。仕事を明日に延ばす人。 

「家庭を滅す人」:自分の一家と国家とのつながりを知らぬ人。両親及び兄姉を敬わず夫婦和合せぬ人。身分相応を忘れる人。毎日不平を言うて暮す人。相互扶助を知らぬ人。嘘を言ひ我儘を平気でする人。不用の物を買ひたがり無駄事に多くの時間をつぶす人。夜更ふかし朝寝をし実力を養成しない人。失敗したときに勇気を失ふ人。非礼なことを平気でする人。今日積む徳が明日の出世の因となることを知らぬ人。先輩を軽んじ後輩に親切に尽くさぬ人。他人の悪口を言ひ争ひを好む人。秩序を守らぬ人。今日一日の無事を感謝せぬ人。

以上の三十ケ条はいづれも処世の要諦であって充分に之を理解し且つ実行に努むる時は職務上独特の技術を発揮して無くてはならぬ人となり人格を向上し性格を円満ならしめ諸人の愛敬を受け以て立身立家立国の三大任務を完成することができる。

然るに若し之を読むも皮相にして底の真理を味解するに至らず或はただ知るのみにして之を貫き行ふの熱意を欠く者は必ず一身一家を破滅の淵に陥れるのである。

1000館ほどの人物記念館を巡ってきて不思議に思っていたことの一つは、小説家、画家、彫刻家などの記念館は多いが、実業人・経営者の記念館はあまりないということだった。書物、絵画、彫刻などは形があり、展示する方向が明確であるからだろうと考えていたが、起業家や企業家は「企業」という生き物を産み、その生き物が成長しているから、企業自体が人物記念館であるということなのだろう。
安定した大企業となった企業の中には、創業者の事績を示す記念館がある。例えば、大阪のパナソニック松下幸之助、京都の島津製作所の島津源蔵など。それぞれの企業は創業の精神を忘れないため、そして企業のDNAを確認するために立派なミュージアムを擁していることが多い。今後は、企業ミュージアムもターゲットとしよう。

「事業の邪魔になる人」「家庭を滅ぼす人」という教訓は、島津源蔵がいうように心にしみる処世の要諦である。