「図解塾」第6期ーー梅棹忠夫「文明の生態史観」の図解講義の2回目。

「図解塾」第6期「梅棹忠夫文明学」。「文明の生態史観」の図解講義の2回目。

復習1回目:「東と西のあいだ」「文明の生態史観」「文明の生態史観2」

2回目:「新文明世界地図」「生態史観からみた日本」「東南アジアの旅から」

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以下、塾生らの学び。

  • 久恒先生、皆様、本日もおつかれさまです。本日は第6期図解塾の2回目。冒頭は寺島先生「世界を見る力」10月16日放送分要約を久恒先生よりレクチュア頂きました。①超円安に日銀大介入。もはやこれが資本主義?②日本再生への原動力とは?⇒食、エネ、水、防災・医療、③新しい「分配」の視角:相続税緩和、地域の「公」なサポート(子供食堂)…「埋没日本の再生」に待ったなし!。後半は英国、エリザベス2世、イギリス没落と共に歩んだ王座。影響力を残しつつ去るしたたかさ、教育、スポーツ、法律と世界中に残る「英国流」に、改めて偉大な影響力を実感、女王の人柄も一助か?。続いて本日本題である「梅棹文明学」は「第5巻:文明の生態史観」をについて久恒先生より講義頂きました。1)「東と西のあいだ」:世界は西洋/東洋だけにあらず、「中洋」の存在。近代化が進まない。理由は:人口過剰、飢餓、旧植民地支配…、2)「文明の生態史観①&②」:日本と欧州は似ている!征服された事が無い☞国が成熟し、宗教・自由都市・貿易が栄え…、3)「新文明世界地図」:第一地域(欧・日)vs  第二地域(中・露・印・イスラム)比較、違いのキーワードは、コンプレックス、平等、識字率。4)「生態史観から見た日本」:日本人の関心☞いま第何位?見識の狭さ、5)「東南アジアの旅から」長期の自動車旅行でフィールドワーク、中/印ではない「東南アジア」の定義、古くから日本との交流、日本人街。第二次大戦での独立…東南アジアとの連携で成長する事が今後の日本の課題。単純な現地取材(生態学:理系のアタマ)に留まらず、民族/歴史感(文系のアタマ)にも造詣を持ち、デッサン→俯瞰→洞察というまさに「総合して観る」プロセスを経た、その成果物たちは戦後間もない頃に提唱され、長い年月を経た今日でも色褪せず変わらない「真実」を予言しているという点にすごさを実感。併せてこの壮大なロジックを、誰の目にも平易に理解させてしまう「図解」のすごさに本日も心酔堪能した次第です。冒頭の新たな日本の再生に向け、我々が今後尽力すべきフィールドで、この「構想する力」が大きな助けになると確信したことが本日の収穫となりました。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 本日もありがとうございました。梅棹先生の難しい内容を図解によって流れや全体像が、わかりやすく、図解の良さを改めて知ることができました。また今回も前回とは違う新たな気づきを得ました。梅棹文明学で、生態学民族学⇒文明学という流れの順番や関連がよくわかりませんでしたが、砂漠地帯での暑さや厳しい環境や寒い地域での環境での生物の「生態学」を人間に置き換えて、「民族学」や「文明学」にも応用して考えると世界や世界の歴史がみえてくるようことがわかりました。「文明」とは「環境」と「人間」の関係であることもわかりました。地球全体を俯瞰してみることの大切さがわかりました。 文明の発達した現代においても解決できないことが「民族問題」ですが、梅棹先生の言われる「地球時代」の考え方が、「民族問題」を考える上で、必要な考え方ではないかと思いました。メンバーの方の質疑応答も、とても参考になりました。梅棹先生の「文明の生態史観」を図解を通して学んで、個人レベルでも、現代や将来、何が大切で何をすべきかを考えていきたいと思います。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。前回の復習から始めていただいたので、梅棹忠夫先生の言われる、第一地域と第二地域に分けた理由など再確認できました。それを踏まえ、新文明世界地図の図解であげられている項目について、これからの講義で深めていくのかなと思うと楽しみです。また、『文明の生態史観』の日本人の反応の図解では、日本人は日本以外に関心がない。そして、論文に反論をもらうと思っていたが、「ある」といっているのに「べき」と反応をもらったことに対して、実践的関心の強さを日本人が持っていることに驚かれたのかなと思いました。アメリカ人、ドイツ人と3人での旅の後に書かれた論文の図解では、その旅でのフィールドワークと、地理、歴史と、人となりを重ね合わせた図解から、異質なもの同士の東南アジアと日本がうまく結合するのが今後の課題だということがわかりました。これから先も難しいく内容になるのかと思いますが、自分なりに解釈できるとよいなと思います。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。梅棹忠夫著作集第5巻「文明の生態史観」の2回目。前回の3枚の図解も含め、ザクっと復習していただいた後、今回の3枚「新文明世界地図」・「生態史観からみた日本」・「東南アジアの旅から」について解説がありました。特に興味を持ったのは、「新文明世界地図」の図解で、比較文明論へのさぐりとして、世界を第一地域と第二地域に分けて比較されていました。「伝統と革命の分布」や「個性的個人と残虐行為の分布」、「学校と新聞の分布」、「官僚と官僚主義の分布」など、世界の姿をいろんな視点で捉え比較してみると、それぞれ大きく2つに分けられるということのようです。国の数から考えると、たった2つ?と思いましたが、解説を聞いて、確かに2つにまとめるとわかりやすいなと改めて思いました。
    梅棹先生はもともと生態学がご専門で、その後、民族学を経て文明学に取り組まれたとのこと。世界の捉え方が他に類を見ないほど幅広くて深いものである理由は、そこにあるようです。 私は著作集を読んだことはありませんが、久恒先生の図解による解説を聞いて、初めて梅棹先生の研究内容に触れ、そのユニークな視点と分析、そして将来の人へのメッセージを知って、毎回ワクワクしています。これからも驚き(刺激)のある学びが続くと思いますので、楽しみです。よろしくお願いいたします
  • 本日もありがとうございました。「文明の生態史観」はとにかく、思いつかなかった新たな視点で世界の文明や歴史を見ることができ、驚きの連続です。第一世界と第二世界の様々な点での違いも、なるほど、言われてみれば確かにそうだと思いました。今日も話題になりましたが、梅棹先生が生態学がご専門だったことも深く関係していると思います。生物学の中でも、実験室の中でミクロの世界を対象とするのとは違い、生態学は自然やそれぞれの関係性の全体を掴む分野だからです。寺島さんもいつもおっしゃっている「全体知」をもつことが今の私たちにも必要だと思います。そのためには専門の狭い分野にとらわれない広い視野と、人的ネットワークが重要だと改めて認識しました。学校教育の中でも今後ますます必要なことだと思います
  • 先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。梅棹文明史観の第二回目ということで、前回の復習を含め興味深い内容でした。まずは、ユーラシア大陸の真ん中にある砂漠地帯が暴力の巣となり、その周りの中国、インド、イスラム、ロシアという大国が、数百年おきに文明の破壊と興亡を繰り返す。一方で西ヨーロッパや日本は破壊や興亡から免れ、成熟しやすい、という捉え方がとても印象に残りました。こうした視点を軸にして様々な人間の営みを比較考察していくところに、面白さを感じます。たとえば、大陸の大国は没個性的・集団主義的であるのに対し、西欧や日本では個人主義的、工業においても大陸の大国は独裁的指導者の上意下達、西欧や日本ではブルジョアジーが牽引、などといった点は昨今の状況に照らしてみても なるほど と思います。また、梅棹先生の発想の豊かさの源泉ということについて、生物学的な視点や探検(フィールドワーク)など、他の文明論研究者とは異なる視点を持っているところ、という話も興味深く伺いました。次回の展開も楽しみです。(川柳も楽しみです)
     
    初参加のメンバーから。
    本日は途中からの参加になってしまいましたが、前回のお話しまで戻っていただき、梅棹さんの全集の流れを図解してくれたことで、全集の内容がどんな風に繋がっているのかがとてもよく分かりました。 今回は新文明世界地図と、生態史観からみた日本、東南アジアの旅からと、たくさんの紹介をしていただいた中で「宗教は伝染病と同じ」「日本は貴族政治なのでは」など、いまのニュースと重なるようなお話しにドキドキしたりしました。また、東南アジアの旅では「文明学は民族学の基礎であり、国立民族博物館はこれである」と聞き、まだ訪れたことがないので、ぜひ次の機会に行ってみたいと思います。この曜日のこの時間は翌日が早朝から仕事ということもあり、なかなか参加出来ませんが、またタイミングが合えばぜひ参加してみたいと思いました。久恒先生今日はありがとうございました
     
     

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「名言との対話」10月19日。鎌倉芳太郎「沖縄文化の遺宝」

鎌倉 芳太郎かまくら よしたろう、1898年明治31年)10月19日 - 1983年昭和58年)8月3日)は、日本染織家沖縄文化研究者

香川県三木町出身。東京美術学校図画師範科で学ぶ。在学中に建築家の伊東忠太(東京帝大教授)の指導を受ける。卒業後、沖縄県立女子師範学校、第一高等女学校、沖縄師範学校で教職に就く。師範学校では後の県知事。屋良朝苗を教えている。

1924年東京美術学校助教授。1944年、退官し、染色家として活動を開始し、琉球染色の本格研究に入る。

1959年『古琉球型紙』を刊行。1964年『越後糸型染』。1967年『古琉球紅型』(技法論)。1973年、人間国宝に認定。『琉球王家伝来衣装』を編集し「琉球の染織工」を執筆。1975年、「沖縄の特質」、「沖縄の染織について」を執筆。1976年、『セレベス沖縄発掘古陶瓷』を刊行。1982年、代表作の『沖縄文化の遺宝』を刊行。1983年、死去。

鎌倉芳太郎は沖縄の紅型・藍型等型絵染の研究・伝承者として人間国宝になっているが、一方で沖縄文化全般にわたる資料の体系的コレクターでもあり、2005年には沖縄研究で遺した写真、調査記録が、国の重要文化財に指定されている。

鎌倉芳太郎は琉球芸術調査を二度行っている。この間、資料を収集した。写真はガラス乾板1229点、紙焼き写真2952点。調査ノート81点。型紙などの紅型資料2154点。陶磁器資料67点。総計7512点だ。この膨大で価値ある資料は、死後、沖縄県立芸術大学で「鎌倉資料」として保存されている。写真の技術、スケッチの技術の腕は確かであった。この資料が写真におさめられたり、画像データベースになって、インターネット上で公開されている。ノート類の編集され順次刊行中である。

石垣市八重山博物館にも蔵元絵師画稿が116点保存されている。祭りの行列や綱引きの様子など貴重な歴史・文化資料である。

こういった資料の中に、首里城のデータがあった。第二次大戦の沖縄戦で沖縄の施設、文物が消失したが、寸法なども記していた鎌倉の資料が沖縄のシンボルである首里城再建に大きな役割を果たしている。「寸法記」と命名されている設計図など鎌倉の資料がなければ、首里城の復元はできなかった。現在、2019年に火災にあった首里城本殿の復元「令和の復元」が2026年をめどに行われているが、ここでも貴重な資料となっている。

鎌倉は石垣市の名誉市民であり、かつ郷里の香川県三木町の名誉町民にもなっている。評伝を書いた与那原恵は「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」と評している。鎌倉芳太郎は、人間国宝として紅型技法の伝承者としての役割以上に、失われた沖縄文化保存の恩人と呼ぶべき人である。アーチストであると同時にコレクターであった。みごとな二刀流のライフワークを実現したのである。綿密な取材とその克明な記録を残したこの人の歩みと為した貢献に感動した。