10月の知研セミナー:都築功「梅棹忠夫が予言した社会と変わる高校教育」。それを聞いて明確になったこと。

10月の知研セミナーは、都築功「梅棹忠夫が予言した社会と変わる高校教育」。

気合の入った講義で、私自身も、日本の抱える問題、課題が明確になった。

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以下は、プレゼン資料の一部。

 


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私の「図解塾」での半年間の「文明の情報学」の図解講義と、都築さんの高校教育の歴史と現在の流れを聞いて、日本の教育の問題点、日本という国の課題が明確になった。

出席者の感想(不登校、N高、QC、知識、、)から感じたこと。

  • 30年前の総合学習、10年前のアクティブ・ラーニングなど、文科省から教育理念が提示され、そのつど中途半端に終わってきた。直近の探求型学習一色の状況だが、理屈をこねまわしている感じがする。「問題解決力」の養成という言葉に尽きるのではないか。

私の感想。

  • 60年前に梅棹忠夫が世界に先駆けて発表した「文明の情報史観」の中心概念である、すべての産業が「情報産業」になるという予言を、実行したのがアメリカである。GAFAの台頭がそれを示している。日本は「情報産業」をコンピュータ産業と狭い解釈をしてしまった。そのため「情報産業時代」に乗り遅れた。教育界も同じで、知識偏重の工業社時代型教育を実行してきた。それを乗り越えようとして理念としては総合学習、アクティブ・ラーニングなどを掲げてきたのだが、保守的な現場の教師の反発を乗り越えられずに、改革は中途半端に終わってきた。21世紀に入って明確となった日本の凋落は、ここに起因している。
  • 現在一色となっている「探求型」では「知識・理解」「思考力・判断力・表現力」「人間性」として、これらの能力を育てようとしているが、わかりにくい。梅棹忠夫「知的生産の技術」では、「よむ・考える・かく」と整理している。読むは理解、考えるは思考、かくは表現である。難しい言い方をしないで、「よむ力」(理解力)」「考える力」(思考力)「かく力」(表現力)とし、その推力として社会の持つ不条理・課題を解決するために貢献しようという「志」を涵養する、ということでいいのではないか。
  • 探求型では「問い」を大事にしているという。私は多摩大学の2013年のリレー講座で「鳥瞰図説 日本と中・韓・台・朝の歴史教科書にみる東アジア近代史の位相」という講義をした。このとき、中国、台湾、韓国の教科書をじっくり読んでみたが、「問い」が重要視されていて、その問いに答えることが要求されていた。日本の軍国主義への批判などについて、留学生が論陣をはって日本人大学生を圧倒するのは、こういった教育があるからだと納得したことがある。そのやり方をやっと導入したということだ。
  • 教育改革が進まないのは、高校教育側からみれば、大学入試が諸悪の根源であるということになる。大学教育側からみれば、大学のブランド重視の産業界の採用姿勢に問題があることになる。ところが産業界は工業社会の残滓を引きずっていて情報産業時代への対応が完全に遅れてしまった。また円安誘導施策で保護されて、安易に流れ産業構造の変革に着手しなかった。そして企画部門、情報官庁であるべき官界は今頃、デジタル庁などを立ち上げたが、その足元はフロッピーディスク、ファックスの使用など、無残な姿をさらしている。各分野はそれなりに頑張ってはいるが、「入口」からの積み上げ方式で、途中で挫折している状況だ。そこから脱却するためには、「出口」を明確にする必要がある。それはまさに国民からの不信にあえぐ「政治」の責任である。まず、明日の時代をにらんだ目指すべき国家像を共有する。それは、梅棹忠夫の提唱した「情報産業の時代」だろう。それにあわせて、利権構造にまみれた産業界をその方向に誘導する。そして大学の教育を変え、大学受験を変え、高校、中学、小学を変えていく。方向が逆なのではないか。没落という崖に立ちすくんでいる現状を変えるには、出口からさかのぼっていくという抜本改革でないとうまくいかないと思う。私は企業や大学で「改革」を担当してきたが、同じように「理念」から入るやり方でやればいいと思う。難しいことではない。中途半端なやり方を続けていくと、この国はさらに凋落していくだろう。

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今日の一句(川柳)

 ストレスは 生きてるしるし 悩みましょ

 使っちゃえ 自分で貯めた カネだもの

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「名言との対話」10月21日。細川護立「美術の殿様」

細川 護立(ほそかわ もりたつ、1883年(明治16年)10月21日 - 1970年(昭和45年)11月18日)は、日本の宮内官僚、政治家

肥後熊本藩の藩主・細川家の第16代当主。男爵、のちに侯爵となった。

学習院高等科、東京帝大に入学し、中退。学習院時代から『白樺』の活動に同人として参加し、武者小路実篤志賀直哉と親しく交わった。また梅原龍三郎安井曾太郎などの芸術家とも親しく交際した。「美術の殿様」と呼ばれるほど、美術品を収集した。

戦前には貴族院議員を約20年つとめた。戦後は文化財保護委員、正倉院評議会々員、国立近代美術館評議員国立西洋美術館評議員東洋文庫理事長などの要職にあった。

細川護立がつくった目白台の「永青文庫」には何度か足を運んでいる。熊本細川家の文庫で、4階建ての古い洋館である。2度目の訪問時には「千利休と武将茶人」という企画展をやっていた。 熊本地震の募金箱もあった。

2011年。熊本県立美術館に隣接する細川コレクション永青文庫展示を観た。細川家のお寺永源庵の永と、幽斎が奪回した青龍寺城の青を組み合わせて、16代の細川護立命名したのが東京の永青文庫である。 近くの細川刑部邸にも入ってみた。

安井曽太郎(1888-1955年)の「大観先生像」という絵がある。晩年の顔を描いている。細川護立侯爵主催で「大観先生写生の会」が開かれ、安井、梅原龍三郎小林古径などが思い思いに絵筆を振るった時の作品である。

1993年に、日本新党から非自民・非共産連立政権を樹立し、総理大臣となった細川護熙は孫である。「内訟録−細川護熙総理大臣日記」にこう記している。「幽斎は常に中庸を行った。中庸とは右と左の中間ということではなくて、大道を行くということなのですが、それははやはり歴史感覚から生まれるものですね」。

細川護熙は60歳で政界を引退して、製陶や絵画など芸術三昧の日々を送っている。2011年に「胸中の山水」展をみたこともある。細川護熙人生の前半は政治家、後半は芸術を中心とした数寄者人生を過ごしている。途方もない道を歩いているという気がしてくるが、これも祖父、あるいは細川家の血のなせる業だろう。

細川護立の言葉は、見つからなかったので、「美術の殿様」を採ることにした。大文化人で、美術界のパトロンとして、散財の限りを尽くしたこの人をあらわす言葉である。