NPO法人知的生産の技術研究会(知研)の総会を開催ーー新体制と新企画

NPO法人知的生産の技術研究会(知研)の総会を開催しました。

2023年の活動報告と2024年の活動計画が議題。岡山、関西の理事も参加。

2020年からの数年間のコロナ禍と創業者の八木会長の死去もあり、一時解散の動きとなりましたが、なんとか持ちこたえて、2023年はリモート中心のセミナーを毎月開催、読書会の充実、リアルイベントの開催、出版活動など、巡航高度を維持できました。

2024年は、幹事の大幅増員による新体制を土台に、雑誌「イコール」特別号の刊行など、高度を上げていく年となります。ホームページも新しくなりました。皆さん、よろしくお願いします。楽しんでやりましょうHP:NPO法人知的生産の技術研究会 | 知研 (tiken.org)

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「名言との対話」2月15日。平井一正「人の偉さはその人が与えた影響力の大きさによる」

平井 一正(ひらい かずまさ、1931年10月31日 - 2021年2月15日)は、日本工学者神戸大学教授。専門はシステム制御工学。

京都大学工学部・大学院を卒業。1964年に神戸大学助教授。ドイツ留学後に教授に昇進。1972年新設のシステム工学科(日本初のカタカナ学科)を開設。1992年にシステム制御情報学会会長。神戸大学でも工学研究科長などを歴任した。1995年から甲南大学教授。

平井一正は登山家としての業績も大きい。京大山岳部では、今西錦司梅棹忠夫らの薫陶を受ける。1958年の京大学士山岳会隊に参加し、チョゴリザ北東峰の初登頂者となる。1962年にはサントロカンリの初登頂。1976年、神戸大学第二次カラコラム遠征隊隊長としてシェルピカンリの初登頂を成功させる。1986年、日中合同隊の神戸総隊長として、クーラカンリ主峰の初登頂を成功させる。2003年、ルオニイ登頂を目指した神戸大学隊長。

平井一正を調べていて京都大学学士山岳会の2011年発行のニュースレター「特集 梅棹忠夫さんを偲ぶ」という資料を見つけた。この中に「登山家としての梅棹忠夫さん」と題して平井一正が書いている。梅棹は壊滅状態にあった三高山岳部を再建しプレジデントとしてリードした。山岳部の平井から見ると梅棹はアルピにストではなくオールランドのマウンテニアであった。1956年に山岳部から独立して探検部が創設された動きを梅棹は全面的に支援した。平井は「人の偉さはその人が与えた影響力の大きさによる」と述べて、梅棹の足跡は、「ひとりの人間がなしえる最大級のもの」と結んでいる。

そして、本多勝一「不肖の弟子として梅棹先生を偲ぶ」を目にした。本多は朝日新聞記者として極地探検報道で名をはせた人で、私の九大探検部時代にはあこがれの人でもあった。農学部出身の本多は『日本語の作文技術』という名著を書いている。この時点で100万部を超える読者を得ている。文章の書き方についても、本多は梅棹の薫陶を受けていた。日本初の探検部である京大探検部創設時代のことも書いてあった。今西、桑原、梅棹、中尾、藤田の5回の探検講座をやった後の総括で、登山を主とする山岳部と探検を主とする探検部にわかれることになる。この時の写真がある。前列に中央に今西錦司、向かって左に若き梅棹忠夫、右に川喜田二郎がいた。本多は取材の方法だけでなく、「基本的ものの考え方」にまで最も影響受けたのは、梅棹先生だったと述べている。

平井一正について書いてるうちに、梅棹忠夫論になってしまったが、拾いものは、平井一正の「人の偉さはその人が与えた影響力の大きさによる」という言葉だった。私は2005年から全国の人物記念館を旅しているが、その過程で「偉い人とは人に与える影響力の大きい人である」との結論を得ていた。まわりに深く、同時代に広く、時間的に長く影響を与えるというように、影響力が大きくなっていく。そして死後も永く影響を続く人が最も偉い人であると考えている。梅棹忠夫はそういう偉い人である。同じようなことを平井一正が言っていることを発見し嬉しくなったと同時に、この結論に確信を深くしている。