『戒語川柳』の編集が終了ーー「表紙」「はじめに」「108の川柳」「イラスト」「おわりに」

『戒語川柳』の編集が終了。見本本を注文。2日後の25日に到着予定。

「はじめに」「おわりに」「表紙」「108の川柳」「イラスト」。

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「名言との対話」12月22日。池島信平「俺は、やるだけのことはやった。恵まれた先輩と、恵まれた友人をもって、自分のしたいことを力いっぱいやったから、いつ死んでも、悔いはないよ」

池島 信平(いけじま しんぺい、1909年明治42年12月22日[1] - 1973年(昭和48年)2月13日)は日本の編集者実業家。文芸春秋社長。

東京出身。旧制新潟高校(蹴球選手)から東京帝大文学部西洋史学科卒業後、第1期生として文藝春秋社(菊池寛社長)に入社。1944年に『文言春秋』編集長。36歳で海軍に招集され「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死」と考え、「よし、どんなことをしても生きて帰ってやるぞ!」と誓う。そしてここで平均的な日本人の姿を知る。

戦後、菊池寛社長が24年にわたり成果をあげた文藝春秋社を解散。池島らは11名の社員で文藝春秋新社を創立した。1966年、文藝春秋社に改名。菊池寛、佐々木茂索に続く第3代社長に就任した。1969年、『諸君』を創刊。1973年、死去。

塩澤実信『文芸春秋編集長ー菊池寛の心を生きた池島信平』(ディスカバーebook)を読んだ。菊池寛という人物の魅力と、彼を師とし、ジャーナリストとして大成した池島信平の戦いを堪能した。池島は戦後の25年かけて「文藝春秋」を国民雑誌にした名編集長だった。

菊池寛へのあこがれ」「奇妙な雑誌」「その生い立ち・その生活」「マルスに魅入られた時代」「赤紙一枚で」「文藝春秋の復刊と解散」「新社の再建と恩師の師」「「文春」上昇気流にのる」「「雑誌記者」四半世紀の栄光」「現場を離れた寂しさ」「sh長の椅子の哀歓」「名編集者の終焉」。以上が目次である。

菊池寛は「有能なものは出ていけ、無能なものはおれ」が口ぐせだった。文春は10年で28ページの雑誌から594ページとなった。ヒューマン・インタレストを核に知的な面白い雑誌になった。菊池寛は10円単位で人に金を渡す。30代から死後の覚書を毎年書いていた、という菊池寛。「話」の編集長になったその菊池寛のもとの1年間の薫陶は池島にとって「生涯の最大の幸福の一つ」であった。菊池の人使いの巧みさに影響を受けてもいる。「いかにして人の知恵をうまく総合して使うか」。人の知恵は無限であり、上に立つ者の要諦を知った。

雑誌は編集長のものである。大衆の半歩先を行く雑誌にしたい。リーダースダイジェストを参考にした。高度の内容を糖衣(シュガー・コーテッド)で説明する編集法である。またノンフィクションを大事にした。戦争経験という稀有な経験をしたからだ。

池島編集長の快進撃は「天皇陛下大いに笑ふ」という記事で決定的になった。ライバルの「週刊朝日」の扇谷正造は悔しがったそうだ。「笑い給ふ」ではなかったのだ。

文藝春秋の読者は「旧姓の中学、高等小学校を出て、駅の助役になった人とか、小学校の先生あたり」だった。見出した作家も多い。源氏慶太。大江健三郎。加瀬俊一。『淋しいアメリカ人』で大宅賞を受賞した桐島陽洋子は元社員だった。才能の発見、発掘、掘り出し物を見つけることは編集者の生きがいだ。

池島は「歴史好きな人間は、モノをタテに冷静にながめることができる」と言っている。文化のフィールドでは硬軟とりぜて深い教養の持ち主。守備範囲は広い。間口が広い。司馬遼太郎は「嫉妬深くなくて、玲ろう玉のごとき人でした」とその人柄を語っている。

池島信平は第3代の社長になった。「いままでは天下の編集長さ。いばっておればよかった。社長になると、ただの本屋さん」と扇谷に語ったそうだ。「経営者なんかつまらんもんだよ」。社長時代には『週刊文春』を創刊しこちらも好調だった。そして保守的主張の『諸君!』も創刊している。

昭和6年にロンドンで日航支店長の招待でごちそうになった後、ホテルでテープレコーダーに「日記」を吹き込んだ、とある。内容は、文芸講演会をロンドンで行うまでになった。菊池寛社長、佐々木社長も考えなかったことをやり満足だ、である。日記をテープに引き込むのは、取材のやり方を採用していたのだろう。

2022年1月号は、『文芸春秋創刊100周年記念の新年特別号』であった。 『文芸春秋』は大正12年1月30日に第3種郵便物認可を受けている。その1923年から100年近く刊行が続いている。「創刊100周年記念特別号」は2023年2月号まで14冊続く、その第1号だそうだ。記念特別号が1年以上続くという大がかりなキャンペーンだ。この1年、ずっと私も読んできた。

創刊号を先日手にした。創刊の辞:菊池寛私は頼まれて物を云ふことに飽いた。気兼ねなしに、自由な心持で。一には自分のため、二には他のため」。芥川龍之介菊池寛今東光川端康成横光利一直木三十二小島政二郎菊池寛芥川賞直木賞直木三十五)。寸鉄傷人「藤村・武郎・牧水・直木」。文士七不思議「倉田百三菊池寛・三島子爵」「後記・気まぐれ。定見無し。来月廃刊か、堂々たる文芸誌か。非難攻撃にはここで答える。原稿料は払う、金額は一任されたい」。それから100年経ったのである。その歴史の中で、池島信平は輝いている。

今回読んだ本の中で、池島信平は次のように述懐している。「俺は、やるだけのことはやった。恵まれた先輩と、恵まれた友人をもって、自分のしたいことを力いっぱいやったから、いつ死んでも、悔いはないよ」。歌手の越路吹雪「いっぱい恋をしたし、おいしいものを食べたし、歌もうたったし、もういいわ」といった言葉を思いだした。

こういう心境で、人生を終わりたいものである。