映画「トキワ荘の青春」をみたあと、「トキワ荘ミュージアム」(マンガの聖地)を訪問。

トキワ荘ミュージアム(豊島区立)。

「マンガの聖地」と呼ばれるのが、トキワ荘だ。昭和30年代。10部屋ほどの4畳半に、後に有名になる漫画家たちが住み、切磋と琢磨を繰り返した伝説の建物である。

手塚治虫が最初に入り、寺田ヒロオが続き、後には続々と地方の漫画家志望者が入居する。赤塚不二夫石森章太郎、鈴木伸いち、園山俊二、つおだじろう、永田竹丸長谷邦夫、藤子・F・不二夫、藤子不二夫A、水野英子、守安なおや、山内ジョージ、よこたとくお、横山孝雄、丸山昭(編集者)。みな10代から20代の若者だった。

ゆかりの漫画家も多い。園山俊二つげ義春ちばてつや、、、。

トキワ荘に行く前に池袋の「シネマ・ロサ」で、最終日の映画「トキワ荘の青春」(デジタルマスター版)をみた。寺田ヒロオ本木雅弘)。藤本弘阿部サダヲ)、安孫子素雄石森章太郎赤塚不二夫、、そして手塚治虫。静かなシーンの連続で、新漫画党の貧しいが仲間意識の強い青春が淡々としたトーンで描かれている。

彼らはライバルではなく、友達だった。漫画の世界は広く、自分の個性を磨けば、立っていける。「新漫画党」を結成し、腕を磨いていく。あるものは、有名になり、あるものは去っていく。映画「トキワの青春」のイメージをもちながら、くまなく見てまわった。

漫画は悪書であるという時代の風潮の中で、このトキワ荘梁山泊であった。それぞれ個性派ぞろいだが、批判や批評をしないという暗黙の了解のもと、奇跡的な共同生活をやったのだ。ときどき現れる「マンガの「神様」手塚治虫が先生、寺田ヒロオが兄貴分だった。

世界に冠たる漫画文化がここから生まれた。ここで、一切手を抜かないなどの漫画家たちの共通の文化が育っていった。その核になったのがトキワ荘という場だった。漫画寮、合宿所であった。

このトキワ荘の復元では、この5月の日経新聞私の履歴書」に漫画家人生を書ている里中満智子が座長となって貢献している。その記事の中で、トキワ荘はあこがれだったとしている。女トキワ荘の話もあった。

 

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デメケンミーティング

力丸君と定例ミーティング

深呼吸学部事務局ミ―ティング

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「名言との対話」5月30日。杉田久女「花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵」

杉田久女(すぎた ひさじょ、1890年明治23年)5月30日 - 1946年昭和21年)1月21日)は、俳人。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。

鹿児島生まれ。大蔵書記官であった父の関係で、沖縄、台湾で少女時代を過ごす。南国生まれで、琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長したと述懐している。エッセイ『朱欒の花のさく頃』というタイトルにつかっている。東京女子高等師範を卒業。

1909年、画家で旧制小倉中学の美術教師の杉田宇内と結婚。久女は当初は小説家志望だったが、俳句に転向。「ホトトギス」を主宰する高浜虚子に導かれ、女流俳人として世に出ていく。1932年には女性だけの俳誌「花衣」を主宰、同年に星野立子らと女性初の「ホトトギス」同人となる。

本名は久。薩摩藩の旧藩主島津久光の名前から長寿を願って「久」と命名された。後に、俳人となって、女性であることを示す女をつけて、俳名として「久女」を名乗った。俳句の世界ではこういう例は多い。

句集の出版を切望し、虚子に序文を多能が理由不明のまま黙殺され、1936年には除名されて悩む。1939年には自選を行い俳人人生を総括する。戦後の食糧事情の悪さから56歳で死去する。長女の石昌子により『杉田久女句集』が刊行された。「久女の墓」の墓碑銘は虚子の字である。

近代俳句における最初期の女性俳人で、格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。 

久女は『日本の名短歌・句集 第七集』では、「大正女流俳句の近代的特色」を書いている。この中で、自らの句もあげながら女流俳句を論じている。以下、久女の句。

寒風に葱ぬく我に絃歌やめ

蔓おこせばむかごこぼれゐし湿り土

白豚や秋日にすいて耳血色

夏瘠や頬もいろどらず束ね髪

風流やうらに絵をかく衣更

花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵

子もぐや日をてりかへす櫛の峰   

ゆく春や珠いつぬけし手の指輪   
蝉時雨日斑あびて掃き移る   
編物やまつげ目下に秋日かげ   
紫陽花に秋冷いたる信濃かな   
風邪の子や眉にのび来しひたい髪

久女の生涯は、高浜虚子松本清張、古屋信子らが小説に描いている。またテレビドラマでも取り上げられている。田辺聖子は実録小説として『花ごろもぬぐやまつわるる・・・・わが愛の杉田久女』を書いている。

「足袋つぐやノラともならず教師妻」は、絵を描くことはせず、田舎教師に堕してしまった夫と自身の境遇を描いた句であり、興味深い。また「花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵」は、着物を脱ぐときに、自身にまとわりつく紐と自身の姿を詠んだ、男には絶対い詠めない名句だ。女流俳人が詠んだ傑作である。女流俳人の嚆矢となった杉田久女の代表作としてあげておこう。

久女の生涯は、高浜虚子松本清張、古屋信子らが小説に描いている。またテレビドラマでも取り上げられている。田辺聖子は実録小説として『花ごろもぬぐやまつわるる・・・・わが愛の杉田久女』を書いている。この実録小説を読んでみよう。