「寺島文庫リレー塾」の最終回ーー「77年周期説」「下部構造と上部構造」「ネットワーク型世界観」「知的生産の技術」

寺島文庫リレー塾の最終回を聴いた。

  • 1945年を基点において、1868年の明治維新まで77年、2022年現在までの77年。そして明治維新から77年前の1791年、現在から2100年までの77年という時代認識。(開国を決めた1965年から40年の1905年の日露戦争勝利までの富国強兵路線が40年、そこからら1945年までの敗戦までが40年、平和条約で独立した1952年からの軽武装経済国家路線で1992年のバブル崩壊までが40年、そこから下り坂に入って2032年までの途中が現在という「日本近現代の40年周期説」を私は今までとってきたが、77年周期説も参考にしながら考えていきたい。梅棹忠夫説では、近代は江戸時代の文化時代(1804年から)・文政時代から始まっている。今年の私の「名言との対話」は近代をテーマにしている。1800年前後から、1945年前後までを近代と定義し、この近代に活躍した、あるいは近代をつくってきた人物を取り上げながら、自分なりの歴史観を紡いでいきたい。私の時代区分では1790年前後から1868年の明治維新までを「近代前期」、明治維新から敗戦までを「近代後期」、そして敗戦・独立から現在までを「現代2期」、現在から2100年までを「現代2期」と考えることにしたい。寺島説とも符合する。)
  • 高校に導入された「歴史総合」。この教科書では明治・昭和、戦争という近現代の重要なポイントについては逃げているという印象。
  • 天皇親政という尊王攘夷の下部構造と開国近代化路線という上部構造で成り立っている日本。戦争の前後でも「継承と断絶」がある。(明治維新を下部構造と上部構造で説明しているのは慧眼である。)
  • 現在は明治維新、敗戦に続く第3の危機。危機感の無さが危機。2100年にかけて人口が半減する。高齢者の子育てへの参加。女性の戦力化などについて本気が必要。
  • 「ネットワーク型世界観」が基軸。「大中華圏ネットワーク」、「大英連邦ネットワーク」に続く第3弾の「ユダヤネットワーク」の『ダビデの星を見つめて』。しつこいほどの「文献研究とフィールドワーク」。自分を含めた戦後日本の体験を文献で補強し、整理、体型化してきた。尋常でないエネルギーが必要。文献同士のシナジー。(体験による実感の積み重ねと、切実な問題意識による読書の徹底した相関、これが寺島さんの知的生産の秘密だ。)
  • 中央公論』に論文を書き始めた1980年5月号の「われら戦後世代の坂の上の雲」(50、60枚)あたりで、慢心、自己陶酔。1979年のイラン革命による三井物産のIJPCプロジェクトへの大きな事件で逃げられなくなった。中東、アメリカ(ニューヨーク、ワシントンの10年)でユダヤイスラエルについて深く知り、ものが書けなくなった。この期間は1991年の『地球儀を手に考えるアメリカ』まで10年続いた。(私は1980年の中央公論三井物産寺島実郎の論文を衝撃をもって読んでいる。そして知研の「知的実務家」インタビューで1982頃に寺島さんと出会い、兄事し、ニューヨークで、ワシントンで、そして帰国時にも何度も会ってきた。この10年は寺島さんの絶筆の期間だったのだ。)
  • 21世紀。勝ち組のイスラエル。負け組の日本。アメリカにとって厄介な同盟国・イスラエルと従順な同盟国・日本の対照。イスラエルを参考に。

以上、15日の東京MXテレビの内容と違う、踏み込んだところを簡単にメモしてみた。

 

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「名言との対話」1月21日。杉田久女「花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵」

杉田久女(すぎた ひさじょ、1890年明治23年)5月30日 - 1946年昭和21年)1月21日)は、俳人。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。

鹿児島生まれ。大蔵書記官であった父の関係で、沖縄、台湾で少女時代を過ごす。南国生まれで、琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長したと述懐している。エッセイ『朱欒の花のさく頃』というタイトルにつかっている。東京女子高等師範を卒業。

1909年、画家で旧制小倉中学の美術教師の杉田宇内と結婚。久女は当初は小説家志望だったが、俳句に転向。「ホトトギス」を主宰する高浜虚子に導かれ、女流俳人として世に出ていく。1932年には女性だけの俳誌「花衣」を主宰、同年に星野立子らと女性初の「ホトトギス」同人となる。

本名は久。薩摩藩の旧藩主島津久光の名前から長寿を願って「久」と命名された。後に、俳人となって、女性であることを示す女をつけて、俳名として「久女」を名乗った。

句集の出版を切望し、虚子に序文を多頼むが理由不明のまま黙殺され、1936年には除名されて悩む。1939年には自選を行い俳人人生を総括するが、戦後の食糧事情の悪さから56歳で死去する。長女の石昌子により『杉田久女句集』が刊行された。「久女の墓」の墓碑銘は虚子の字である。

近代俳句における最初期の女性俳人で、格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。 

久女は『日本の名短歌・句集 第七集』では、「大正女流俳句の近代的特色」を書いている。この中で、自らの句もあげながら女流俳句を論じている。以下、久女の句。

寒風に葱ぬく我に絃歌やめ

蔓おこせばむかごこぼれゐし湿り土

白豚や秋日にすいて耳血色

夏瘠や頬もいろどらず束ね髪

風流やうらに絵をかく衣更

花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵

子もぐや日をてりかへす櫛の峰   

ゆく春や珠いつぬけし手の指輪   
蝉時雨日斑あびて掃き移る   
編物やまつげ目下に秋日かげ   
紫陽花に秋冷いたる信濃かな   
風邪の子や眉にのび来しひたい髪

久女の生涯は、高浜虚子『国子の手紙』、松本清張『菊枕』、古屋信子『底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち』らが小説に描いている。またテレビドラマでも取り上げられている。田辺聖子は実録小説として『花ごろもぬぐやまつわるる・・・・わが愛の杉田久女』を書いている。

「足袋つぐやノラともならず教師妻」は、絵を描くことはせず、田舎教師に堕してしまった夫と自身の境遇を描いた句であり、興味深い。また「花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵」は、着物を脱ぐときに、自身にまとわりつく紐と自身の姿を詠んだ、男には絶対い詠めない名句だ。女流俳人が詠んだ傑作である。

女性の俳名には、「女」とついたものがある。例えば、阿部みどり女(1886年生)、長谷川かな女(1887年生)、竹下しずの女(1887年生)、三橋鷹女(1899年生)、中村汀女(1900年生)、鈴木真砂女1906年生、、。杉田久女は1890年生まれだから、その前後が多いのだろうか。女性は短歌が中心で、俳句を詠む女性がまだ少なかった時代に、流行ったからだろう。近代の女性俳人たちの心意気がわかる気がする。杉田久女は近代女流俳人の嚆矢である。