「漱石山房記念館」で開催中の「夏目漱石と、野上豊一郎・弥生子」展ーー師としての漱石象

新宿区早稲田の「漱石山房記念館」で開催中の「夏目漱石と、野上豊一郎・弥生子」展。主に漱石野上弥生子の関係を調べてきた。

古庄ゆき子によれば、野上弥生子は「幸運」に恵まれていた。それは以下の5だ。生家の環境。明治女学校の教育。野上豊一郎との結婚。作家生活への出発の条件、健康な体。その上で「努力」と「辛抱」によって、才能を開花させたのだ。

そこで、師としての夏目漱石が登場する。同郷で二つ上の夫の野上豊一郎(臼人)は礎石の一高、帝大時代、そして生涯にわたる恩師であった。弥生子の小説を豊一郎経由で読んだ漱石は、文学者を志す婦人とみて、厳しいが愛情のこもった忠告をしている。感激した弥生子は木曜会に出席する夫を通じて漱石を師として生きる。

最初の『明暗』。「非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。従って苦心の割に全体が引き立つ事なし」という指摘から始まる。「散文中に無暗に詩的な形容を使ふ.」「警句に費やせる労力を挙げて人間其のものの心機に隠見するい観察に費やしたらば、、」「大なる作者は大なる眼と高き立脚あり」「人情ものをかく丈の手腕はなきなり」と述べている。また「明暗の作者は人生のある色の外は識別し得ざる若き人なり。才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索総合の哲学と年が足らぬなり」。そして「明暗の著作者もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし」とのアドバイスもある。最後は「妄評多罪」と記している。

デビュー作となった『縁』は、漱石が『ホトトギス』に紹介して掲載された。「源因がなければならん」。「あらかじめ伏線を設けて」。「読者の腑には落ちず」。「伏線」。「手腕の必要なる所なり」。「只運用の妙一つにて陣を化して新となす。作者は惜しい事に未だ此力量を有せず」

漱石全集(1993年 - 1999年、岩波書店、全28巻・別巻1)。2016年12月より新版刊。

三好行雄編『漱石書簡集』(岩波文庫)を購入。漱石は手紙の人であった。生涯で2252通を書いたという。そのうちの158通が掲載されている。子規への手紙の明治22年から大正5年までである。少しみたが、漱石の考えがよくわかる内容なので、じっくりと読破したい。

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漱石山房の前に、新宿で11時半に橘川さんとミーティング。その後「桂花ラーメン」で食事。50年前からあるラーメン屋。

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夜:京都の藤原先生から電話。「心の健康」。最近の著作を送ろう。

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「名言との対話」11月15日。坂本龍馬「世の既成概念を破るというのが、真の仕事である」

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日新暦1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日新暦1867年12月10日〉)は、江戸時代末期志士土佐藩郷士薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。大政奉還成立の1ヶ月後に中岡慎太郎とともに暗殺された(近江屋事件)。

龍馬の人生や功績は、司馬遼太郎竜馬がゆく』によって世に知られた。龍馬は言葉がいい。

  • 事は十中八九まで自らこれを行い残り一、二を他に譲りて功をなさむべし。
  • 人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。
  • 金よりも大事なものに評判というものがある。世間で大仕事をなすのにこれほど大事なものはない。金なんぞは、評判のあるところに自然と集まってくるさ。
  • 慎重は下僚の美徳じゃ。大胆は大将の美徳じゃ。
  • 時世は利によって動くものだ。議論によっては動かぬ。
  • 万事、見にゃわからん
  • 古来、英雄豪傑とは、老獪と純情の使いわけのうまい男をいうのだ。
  • しかない、といういものは世にない。人よりも一尺高くから物事をみれば、道はつねに幾通りもある。

さらに、「事の78分まで仕上げたらあと12分の成功は人に譲ってやるつもりだ」「さようさ、世界の海援隊でも始めようか?」「余に生利を得るは事をなすにあり。人の跡を慕ひ人のまねをするなかれ」「世の中の人は何ともいはばいへわがなすことはわれのみぞ知る」などもある。以上のような龍馬の言葉をみると、この男はよほど魅力的な男だったろう。

明治維新の立役者であっ坂本龍馬、1867年の11月15日に京都河原町の近江屋で陸援隊長の中岡慎太郎とともに暗殺された。龍馬33歳、慎太郎30歳。 龍馬は奇しくも誕生日に暗殺されたのである。

剣術の江戸三大道場は「技の千葉(北辰一刀流千葉周作)、力の斎藤(神道無念流斎藤弥九郎)。位の桃井(鏡心明智流。桃井春蔵)」と評された。桃井道場の塾頭が武市半平太、斎藤道場の塾頭が桂小五郎、千葉道場の塾頭が坂本龍馬であった。

「其れ剣は、瞬速、心、気、力の一致」が千葉周作の剣道の極意である。その千葉道場は、輩出した人材の豊富さでも群を抜いている。剣客の森要蔵は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』『上総の剣客』で紹介されている。新選組山南敬助伊東甲子太郎。日本初の独和辞典を刊行した日比谷健次郎。庄内藩出身で浪士組を組織し「回天」を目指した清河八郎。そして坂本龍馬。

現代の思想家・内田樹は、桂小五郎武市半平太坂本龍馬がそれぞれ幕末の三大剣道場の塾頭をそろってやっていたのは司馬のいうような偶然ではなく、剣技の高さと志士としての器量のあいだに相関があったと見ている。彼らは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばいいかがわかる」能力を修業によって身につけていた」という。

大事を為した、あるいは為そうとする人物は、同時代に生きる先達を超えて、歴史の中に師匠を見つけるようだ。ダイエー中内功坂本龍馬であったし、小泉首相織田信長である。ソフトバンク孫正義もナポレオンや坂本龍馬武田信玄などを師匠としている

和田秀樹『六十代と七十台心と体の整え方』では、「生老病死」という人生の原理を変わらないとし、「何をくよくよ川端柳、水の流れを見て暮らす」という坂本龍馬作とされている都都逸で締めくくっていた。

龍馬の名言の中で、「世の既成概念を破るというのが、真の仕事である」を採りたい。前例に従ってそつなくものごとを進めることは仕事でも何でもない。既成概念を打ち破り、越えていくのが本当の仕事の意義と意味である。新しいやり方の発見、創造的な工夫、そういう姿勢こそ、仕事師と呼ばれる条件なのである。こういう考え方には大いに共感するし、そういう方向で私もやってきたつもりだ。何をやるにしてもこの考えでやっていこう。

私はいくつか坂本龍馬の足跡を訪ねている。それを記す。

2005年。東大阪司馬遼太郎記念館を訪ねた。コンクリの天井の部分に「しみ」が出ているという。よくみるとそのしみは坂本龍馬の姿にそっくりだ。龍馬が司馬遼太郎記念館に現れたと話題になっているそうだ。

2006年、長崎の龍馬の運営した亀山社中。 「よか眺め一目千両坂の街」という文字が見える急坂「龍馬通り」を降りていくと2階建ての一軒家に着く。それが日本初の商社だった亀山社中だ。22名の脱藩者を束ねた。これが後に土佐藩海援隊になる。薩長同盟のきっかけをつくった。龍馬は173センチだ。

2010年に訪問した下田の唐人お吉記念館のある宝福寺には、お吉の墓がある。粗末な墓と、後に建立した墓と二つある。新しい墓には椿の花が咲いていた。椿は落ちても散らない、凜とした花であり、信念を貫いた、ぶれなかったお吉に似合う花だと墓掃除をしている婦人に教えてもらった。

この寺は、坂本龍馬と縁がある。幕府の高官・勝海舟(1823−1899年)と土佐の山内容堂(1827−1872年)がこの寺で会見をしており、そのときに土佐脱藩浪士・坂本龍馬の赦免を取り付けた場所である。容堂は「歳酔三百六十回 鯨海酔候」という色紙を残している。「その坂本とかいう者、それほどに思われてとんだ果報者でござるな」と容堂はいい、翌年2月に正式に赦免されている。ここから龍馬の活躍が始まる。

この下田は、吉田松陰が密航を企てて、ペリー艦隊に小さな小舟で乗り込んだ地でもある。ちょうどNHKの大河ドラマ龍馬伝」で、このシーンを訪問した日にやっていた。下田港の風景を懐かしみながた見た。「寒椿 唐人お吉に似たる花 落ちても散らず凜として咲く」は私の駄首である。

佐藤・ニクソン会談の密使をつとめた国際政治学者の若泉敬の「志」の文字が刻まれた鯖江にある墓石は正面が太平洋を向いているという。以前訪問した大磯の吉田茂の像も、そして高知の桂浜の坂本龍馬の像も同じく、太平洋を眺めていた。日本近代は、太平洋と向きあった時代であった。