松戸川柳会に参加してきました。

松戸川柳会に参加しました。

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永年続いている川柳会で、毎月40名ほどが参集するという盛況の会。

会場の市民会館をめぐると、俳句の会、朗詠の会などがやっていた。俳句の会は10数名だが、川柳の会の方が圧倒的に多かった。

誘ってもらった渡辺柳山さんから、米山暁子会長らに紹介してもらう。川柳会のやり方を教えていただく。

今月の宿題、席題の優秀句の発表を聞く。皆さん、年季が入っていてうまいもんだ。いくつかをメモったので記してみたい。

「根回しも金が物言う多数決」「これ以上飲むと自慢がとまらない」「書初めの墨たっぷりの筆のさえ」「AEDハートに喝を入れ続け」「ノックは不要こころをあけて待つ」「100歳を目指す白寿のランニング」「人生を早く走ると終わりそう」「グランドに目をやるクラス会」「走り書き残して妻は里帰り」、、、。

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帰宅したら、『戒語川柳2』の見本が届いていた。表紙の代表句は「うたた寝も スマホ・リモコン 腹の上」。内容を点検して、発注は明日。

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「名言との対話」1月22日。河竹黙阿弥明日は明日の風が吹く

河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体默阿彌1816年3月1日文化13年2月3日)- 1893年明治26年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。

遊興にふけり勘当される。20歳の時、第5世鶴屋南北に入門。立作者となり2世河竹新七を襲名し、以後50余年にわたり活躍する。40歳以降は劇界の第一人者となる。

世界大百科事典によれば、作者生涯は4期に分けられる。

第1期は20歳から38歳までの20年の基礎修業の習作時代。勤勉、記憶力がよく、画才もあり、第7世市川団十郎に引き立てられる。

第2期は1854年からの10余年間。世話話狂言、特に白波物で地位を確立した。

第3期は1866年から1881年で引退するまでの15年間の明治時代が中心。新富座の座付き作者の時代。文明開化という社会の変化に伴って、「ハムレット」など新しい品目も手掛けるが、真価は江戸風世話物にあった。

第4期は引退後の10年間である。

生涯の作品総数は約360である。市井の社会の底辺で生きる人々の現実世界を写実的に、かつ抒情的に描いた。晩年には自作の演目を『狂言百種』として自ら全集にまとめている。50余年の作品を総まとめとしている。これでライフワークを完成させたのであろう。

代表作は「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」。

三人吉三廓初買』(三人吉三)大川端庚申塚の場、お嬢吉三の科白「月も朧に白魚の 篝(かがり)も霞む春の空、、、こいつぁ春からぁ縁起がいいわぇ」

『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)雪ノ下浜松屋の場、弁天小僧菊之助の科白「知らざあ言ってぇ聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が 、、、、、名せえ由縁の弁天小僧 菊之助たぁ俺がことだぁ」

以上のように今でも人口に膾炙している名セリフがある。「明日は明日の風が吹く」「人の噂も七十五日」「昨日の敵は今日の味方」も黙阿弥の書いたセリフにある。

江戸歌舞伎の集大成者であり、坪内逍遥は「江戸歌舞伎の大問屋」、「明治の近松」、「我国の沙翁(シェークスピア)」と絶賛している。

河竹新七が引退したあとにつけた「黙阿弥」という名については、いったん引退するが、また世に出ていくから、「元のもくあみ」になるよというしゃれであったらしい。そしてそのとおりになった。

河竹黙阿弥は、近松門左衛門らの江戸歌舞伎を集大成し、近代化に貢献した、日本のシェークスピアという評価を打ち立てた人物である。