P社から来年春の出版をめざす本の企画・取材ミーティング。
ライフワーク。オリジナリティと普遍性。50歳。、、、、。
会って「話し合う」ことによるアイデアの噴出。話しながら自分の考えが湧出してバーどんどんジョンアップしていく醍醐味。新しいキーワードの発見。、、実に楽しい時間となった。いい本になる。リアルの醍醐味だ。
久しぶりに野田一夫先生の語りを聞いて元気をもらった。
午前は、からだのケア。元気復活。
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「名言との対話」11月13日。稲尾和久「人間、バカになり切ったものが勝つ」
稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
シーズン42勝は最多タイ記録。投手三冠王を2回。最優秀防御率を5回獲得。最多勝利を4回獲得、、、、。西鉄ライオンズの主戦投手としてチームの3年連続日本一に貢献し、連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれた。276勝137敗。防御率1.98。西鉄、太平洋、ロッテで通算8年の監督。431勝545敗64分け。
大分県別府の漁師の父に小船で櫓を漕ぎ続けて鍛えられた。3年の猶予で高校、3年の猶予でプロ野球という父との約束だった。それをクリヤーして大投手になった。
稲尾の野球生活のハイライトは、1958年の巨人との日本シリーズだ。三原監督、1番高倉、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口、6番河野、7番仰木、8番和田、9番稲尾。黄金期のオーダーだ。稲尾は連敗から4連勝した奇跡の主人公となった。第5戦では、延長10回に投手稲尾はシリーズ初のサヨナラホームランを放った。稲尾本人はまぐれ当たりといいう。そのとき、乱入したファンが「神様、仏様、稲尾さま、救いの神の稲尾様」と三拝九拝した。それが新聞の見出しになった。小学校低学年だった私の記憶にもある。長嶋との感性対決、王の目線の発見、、、。第6戦で4連投。9回二死一、三塁で4番長島の場面で、最後の決め球から考え、初球の入り方へとさかのぼる「逆算の塔手術」を編み出して抑えた。それが1961年の42勝につながっていった。第7戦は5連投。6試合で47イニング、打者175人が相手だった。
以下、稲尾語録。
・人間、バカになり切ったものが勝つ。
・最後まで目線は切らない、これが制球力の秘密。
・請われて教えるようなお人よしでは、この世界で通用しない。
・強いチームには必ず、ライバル同士という両輪がいて、引っ張っている。長嶋と王、山本浩二と衣笠祥雄、秋山と清原、廣澤と池山、、。
・私はライバルに恵まれていた。最高にして最強のバッター榎本喜八。
・何打席、何試合もかけてエサをまき、配球を読み合うのが打者と投手の勝負。
・何かを極める時、人智を超えたものに遭遇するということがあるのではないだろうか。
・ピッチャーの価値は防御率で決まる。
「ささやき戦術」の野村克也は稲尾の完璧な制球力を絶賛し、「技巧派」の投手の代表格と言った。稲尾自身もマウンドで「ささやき投法」を行っている。
監督としては、落合の三冠王と村田兆治をサンデー兆治にしたことを喜んでいる。稲尾には誰にでも好かれる人柄とエースとしての品格があった。エースには撲の横綱のように品格が求められると考えていた。人の悪口を絶対に言わない。あの人は本当に神様みたいな人間性ですという賛辞も受けている。
1993年に野球殿堂入り。 2001年にプロ野球マスターズリーグが発足すると福岡ドンタクズの監督としても活動した。2007年10月2日、故郷の別府市に完成した別府市民球場内に「稲尾記念館」が開館した。70歳没。法名は「最勝院釋信明(さいしょういんしゃくしんみょう)」。
稲尾和久『神様、仏様、稲尾様』(日経ビジネス人文庫)では、日本球界を心配している。メジャーに行ったイチローに「行くなら、オレを倒してから行け」という投手がいなかった。選手の流出を残念に思っている。江川や工藤のように選手が自分の体をガラス細工のように扱い始めた。才能を小出しにしているようにみえる、バカになったらもっとすごい選手になるのに。
「あれだけ投げさせてくれたから今の自分があるんですよ。自分ではまったく酷使されたなんて思っていませんよ。感謝の気持ちはあっても恨むようなことは一切ない」という気持ちであり、「人間、最後はバカになり切った者が勝つ」との名言を吐いている。この言葉の後には、「そうでなくてどうして、人の上を行く技術、体力、修羅場でふんばる気力が得られるだろうか」が続く。野球バカ、将棋バカ、、、。寝食を忘れて何かに没頭することでしか成功はないと改めて思う。