企業ミュージアム探訪ー「容器文化ミュージアム」。昼は横浜でJAL時代の仲間との同窓会。

「容器文化ミュージアム」という不思議なミュージアムは大崎フォレストビルの1階にある。

「容器包装」とは何か。「中身をまもる」(微生物、酸素、光から)。「使いやすく片づけやすい」「伝える」(色やデザインを用いて)。

壁面の「人と容器の物語」は容器の歴史から現在までの歴史、そして未来の容器なども展示されている。

「容器」の開発に貢献した人物として高崎達之助の名前があった。東洋製缶の創業者だ。このフォレストビルには、「製缶」関係の企業が多く入っていることに納得。

以下に見るように高崎は日本経済界の重鎮で、中国とのLT貿易に名前を残す大物だ。その出発は缶詰事業を製缶と缶詰の二つに分けたことで、事業を飛躍的に拡大した人である。高崎がつくった東洋製缶が主体となって、この「製缶文化ミュージアム」が生まれたのだろう。

「名言との対話」高崎達之助「競争者が多くいることはいいことだ。自分がどんなに勉強しているか本当に批評してくれるのは、競争者以外にはない。」

高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本政治家実業家満州重工業開発株式会社総裁電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。

1955年のアジア・アフリカ会議バンドン会議)には鳩山首相の代理で日本政府代表として出席し、ネルーナセル周恩来などと親交を深めた。1956年には日比賠償協定の首席全権として日比国交正常化の実現にあたった。1958年には第2次岸内閣通商産業大臣に就任し、全ての会社の重役を辞任。同年、日ソ漁業交渉の政府代表となり、北方領土付近の漁の安全操業のために尽力した。1962年中華人民共和国を訪問。廖承志との間で日中総合貿易(LT貿易)に関する覚え書きに調印した。死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた。経済人として大成した高崎は、政治の世界でも戦後のアジアを中心とした外交でも重要な役割を果たしている。

「事業の目的は第一に人類の将来を幸福ならしめるものでなければならぬ。第二に事業というものは営利を目的とすべきではない。自分が働いて奉仕の精神を発揮するということが、モダン・マーチャント・スピリットだ」

通常の会話では競争相手のことをライバルというが、本来の意味は同等もしくはそれ以上の実力を持つ競争相手の事だ。日本語では好敵手という意味合いである。実力が明らかに上の人はさらに上の人物をライバル視する。この言葉は少し下の人が少し上の人を意識する言葉のようだ。さて、日中のLT貿易で名前が残っている高崎達之助の冒頭の言葉は、競争者を歓迎する言葉だ。確かに自分の実力を本当に知ってくれる同じ分野でしのぎを削る競争者である。

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横浜でJAL時代の仲間との飲み会。環、浅山。

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「名言との対話」3月6日。菊池寛「私は頼まれて物を言ふことに飽いた」

菊池 寛(きくち かん、1888年明治21年)12月26日 - 1948年昭和23年)3月6日)は、小説家劇作家ジャーナリスト

香川県高松市出身。この人は学歴的にはずいぶんと回り道をした人だった。東京高等師範明治大学早稲田大学、一高などを中退。28歳でようやく京都帝国大学を卒業。
28歳「父帰る」、32歳「真珠夫人」で流行作家になった。35歳、文藝春秋社設立。47歳芥川賞と直木賞創設。51歳菊池寛賞創設。55歳大映社長、満州文藝春秋社長。59歳公職追放、死去。

芥川「菊池と一っしょにいると何時も兄貴と一しょにいるような心持がする」。芥川龍之介の河童忌に詠んだ俳句が目についた。「河童忌や 集まる人も やや老いぬ」。

その菊池寛自身の遺書には「私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います」とある。

2013年に香川県高松市の記念館を訪問した。芥川賞直木賞の全受賞者の名前と写真が並んでいた。日本の文学界の巨匠だらけで実に壮観だ。この賞が与えた影響力を改めて感じてしまった。

菊池寛の言葉。「日本精神というのは外来のあらゆる文化の思想を包容して、しかも本来の真面目を失わないところに存する」「日常生活が小説を書くための修業なのだ」

菊池寛賞は、日本文化の向上に貢献した人・団体に与えられる賞で、宮崎駿イチロー曽野綾子桂三枝新藤兼人高野悦子安藤忠雄いわさきちひろ、近藤誠などの名前がみえた。

井上ひさしは「菊池寛という人はどうやら、生活の場ではグータラでものぐさ、勉強や仕事になると別人のごとく勤勉というタイプだった」と喝破している。

2022年3月に松本清張菊池寛の文学」(1987年10月31日。江藤淳と同じイベントでの講演)をオーディブルで聞いた。ーー菊池寛の文学は「貧乏」と「醜男」であることが源である。逆境と貧乏と学校の相次ぐ中退。書斎派の漱石を嫌悪。人生派のリアリズムに大きな価値。本物の感動を与える作品。松本清張「たった一本の代表作、人口に膾炙した作品があるかが作家の価値を決める」。「坊っちゃん」の漱石と鴎外、「金色夜叉」の尾崎紅葉、、。

文芸春秋創刊の辞では「私は頼まれて物を言ふことに飽いた。自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で言って見たい。」そして、「文芸春秋は、左傾でも右傾でもない、もっと自由な知識階級的な立場でいつまでもつづけて行くつもりである」とも述べている。文春はその遺志を長く守っている。

文藝春秋 創刊100周年記念の新年特別号』を2021年末に手にした。『文芸春秋』は大正12年1月30日に第3種郵便物認可を受けている。その1923年から100年近く刊行が続いている菊池寛が発行した総合雑誌だ。「創刊100周年記念特別号」は2023年2月号まで14冊続く、その第1号だそうだ。記念特別号が1年以上続くという大がかりなこの企画は、この100年を総ざらいするものになるだろう。毎号、楽しみにしたい。

「文春」を買うと、いつも読む項がある。各界で成功したいろいろな学校の同級生たちが登場する「同級生交歓」。トップが阿川弘之立花隆藤原正彦と続いている「巻頭随筆」。経済界の人事情報を明かす「丸の内コンフィデンシャル」。官僚社会の人事を説明する「霞が関コンフィデンシャル」。最近亡くなった人物を悼む「蓋棺録」。「巻頭随筆」のトリは、いつもローマに住む塩野七生だ。

1年後の2023年1月号。「101人の輝ける日本人」。昭和天皇から池田理代子まで。物故者が中心だが、現役も選ばれている。私の「名言との対話」では物故者はほとんど取り上げている。未だなのは数人だ。当然のことながら、存命中の人はまだである。人選の基準が不透明な気がする。以下、読むべきところ。保阪正康「平成の天皇皇后 両陛下大いに語る」。林真理子「私は日大をこう変える」。内館牧子「集まれ! 老害の人」。鹿島茂菊池寛アンド・カンパニー」13。「続100年後まで読み継ぎたい100冊」

出版には、書き手と読者とをつなぐ編集者という職が存在している。誰の役割が面白いかと考えると、特に雑誌の場合は、執筆者よりも編集者の方が断然面白い。私にも経験があるが、一つの新しい世界を創造する愉しみである。長く続いている文芸春秋社と、才能を発掘する芥川賞直木賞ををつくったジャーナリスト・菊池寛の功績は偉大である。