万葉歌碑と渋沢栄一。渋沢栄一の事績の広さに感銘を受ける。

梅雨の晴れ間が惜しくて、多摩川沿いの狛江市の万葉歌碑を訪ねました。2008年に当時81歳だった母親と一緒に訪ねたから、13年前になります。

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音を漢字にあてはめた万葉仮名で書き表わされている。

多摩川に晒す手づくりさらさらに何ぞこの子のここだ愛しき」

 

 「多摩川にさらさらとさらす手づくりの布のように、さらさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう」

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この碑は、刻まれた文字が江戸幕府の老中として活躍した松平定信の筆になる。また裏面の陰記は渋沢栄一の撰文と書である。文化文政時代は、行楽が盛んで、多くの文人墨客が多摩川を訪れていた。多摩川の美しさに魅せられていた平井有三(元土浦藩士)が、名勝づくりを発起し松平定信に依頼し、文化2年(1805年)この歌を石に刻みつけ、多摩川堤防の町側に土手を築いて建てた。
碑はゆうゆうと流れる多摩川と調和して素晴らしい光景を造り出した。大勢の人がきたが、京都の松野松秀が感銘を受け佐藤信古から拓本を入手する。当時の多摩川は水量が豊富で暴れ川で、文政12年(1829年)の大洪水で堤防が決壊し、玉川碑も流出してしまう。佐藤信古は拓本を松野から譲り受ける。
大正時代に元桑名藩士で松平定信を尊敬していた羽場順承は、玉川碑の拓本を譲り受け、再建への希望を燃やし石碑を求めて土地を掘り返す。狛江村の村長も協力したが見つからなかった。

そこで名勝保存に志のある渋沢栄一に再建の協力を依頼することとして大正11年12月に玉川史蹟猶興会を結成する。顧問となった子爵渋沢栄一は、総費用を5000円と見積もり、本人が2500円、財界人から2150円(大倉喜八郎服部金太郎和田豊治、安田善治郎、成瀬正恭、、、)、そして総額は6014円になった。そして名石・小松石に羽場順承の持つ拓本の文字を刻み大正12年8月に大方完成した。秋には除幕式を行う予定だったが、関東大震災で歌碑は倒れ、除幕式は延期された。大正13年1924年)4月13日の松平定信(楽翁公)の命日に除幕式が行われた。

渋沢栄一が撰文した裏面の撰文の玉川碑陰記には、この碑のできた由来を述べた後、「そもそも微なことでも、(大事なことは)世に紹介し、幽なことでも(大事なことは)闡明にしていくことが、孔子が著したとも言われる「春秋」(という歴史書)の志であった。」という言葉がある。

「余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする」は、営利事業について渋沢が語った方針であるが、社会事業にも渋沢は熱心だった。意義のあることを頼まれたら、半分は渋沢が出し、後の半分は財界に声をかけて集めて完成させるという渋沢方式をみる思いがします。ここで渋沢の社会貢献事業について、私が実際に見聞きしたところを以下に記してみたい。

  • 2006年。静岡で泊まったホテルは「浮月楼」という庭園の隣。この庭園は江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が悠々自適、20年にわたって過ごした地である。ホテルの近くに渋沢栄一がつくった商会所跡の石碑があった。渋沢は慶喜の従者として静岡でも活躍した。この商会所はその後渋沢が全国につくったの商工会議所の前身だろう。
  • 吉田東伍『大日本地名辞書』は日本の地名に関する最初で、最大の辞書である。政界、学界、渋沢栄一ほか財界人等27氏から序文、推薦文等が寄せられている。
  • 友人の遅い結婚式の会場の一ツ橋の如水会館の一階には、渋沢栄一の半身の銅像が建っていた。「如水会」とは東京商科大学(現一橋大学)卒業生の同窓会で、1889(明治22)年設立の高等商業学校校友会が前身。校友会は後に同窓会へと名称を変更、1914(大正3)年には渋沢栄一命名により如水会となった。渋沢栄一は商業教育を重視し、商工業者を蔑視する官尊民卑の風潮を打破するためにも「教育の力に依って商業を尊敬せしめるようにせねばならぬ」(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.305)と述べている。1900(明治33)年、渋沢は東京商業高等学校を大学に昇格させるように主張し、尽力。その後20年を経て1920(大正9)年、同校は東京商科大学へと発展した。その後、一橋大学になる。
  • 日本は美術館天国だ。事業家・経営者は美術コレクターが多く、すぐれた美術館を遺してきた。その発端は1909年の渋沢栄一が団長の渡米団でアメリカの事業家たちの社会貢献をみたことだ。畠山清和、原邦造、岩崎弥之介などみんな美術館を残している。
  • 高峰譲吉理化学研究所理研)の設立を提唱、渋沢栄一は副総裁として財政を後押しした。理研は63社、121工場もの企業群を擁するコンツェルンを形成したが、人材輩出の面で素晴らしい業績をあげている。
  • 温故学会は塙保己一の遺志を継承して大成することを目的として1909年公益法人化した。渋沢栄一は発起人の一人で、この立派な温故学会会館の設立にも同郷の渋沢栄一が援助をしている。ヘレンケラーが訪問している。
  • 2017年。「がん研有明」の知人のお見舞い。1908年創立で100年を越える「がん研究会」は、渋沢栄一が尽力してできた団体だった。渋沢は500社の創立に関わったのだが、慈善事業・社会福祉事業には600だった。その一つが「がん研」だったことが分かった。
  • 渋沢栄一井の頭公園)。渋沢栄一は、実業界引退後に教育や社会公共事業にも広く尽力しましたが、その一つ、現在の井の頭自然文化園の敷地にあった、非行少年更生施設の井之頭学校の校長を務めていた。
  • 2019年、塩原太助記念館。1925年(大正14年群馬県水上町に塩原太助翁記念公園が完成。渋沢栄一が顕彰碑に揮ごうしている。
  • 2021年。「 旧東京音楽学校奏楽堂」が開いていたのでのぞくと、渋沢栄一の碑があった。「永遠」という字が揮毫されていました。「栄一書」とだけ書いてある。この奏楽堂の建設や保存にも渋沢栄一力を貸したのでしょう。ここにも渋沢栄一がいたのか。

思いがけないところで、渋沢栄一が尽力しているとして、名前が登場することを経験している。この玉川碑に関与した渋沢栄一1840年生まれ、大倉喜八郎は1937年生まれ、安田善次郎は1938年生まれと同世代だった。

渋沢を中心とした財界人らは、常に集まって以上のような相談をしていたのでしょう。三井物産初代社報の益田鈍翁(孝)は、渋沢栄一について「何か困難なことが起こると、上州気質を出してあくまでやる。それに徳望が伴うものだから、どんな困難なことでもやり遂げる。何か新しい仕事をやるときはまず渋沢さんに相談した」と書いている。渋沢の志と立ち位置がよくわかる言葉です。

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「名言との対話」7月10日。伊藤淳二「「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る」

 伊藤 淳二(いとう じゅんじ、1922年7月10日 - )は、日本実業家

伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社。オーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで社長となる。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任。城山三郎『役員室午後三時』- 主人公のモデルとなった。

1985(昭和60)年の御巣鷹山日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任。山崎豊子沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなった。

この人が御巣鷹山事故で揺れるJAL再建の切り札として乗り込んできたとき、私は35歳の広報部員だった。伊藤会長のインタビューなどにも同席したことがある。

今回、 1988年刊の『天命』の(復刻版)を読んだ。信条は「天命を信じて人事を尽くす」だ。結果は期待に反することもあるが、最善を尽くしただけを反省する。1985年に政府の強い要請によって日航の経営陣に加わったことを、二度目の召集令状を受けたと記している。

伊藤淳二は優れた人との出会いを求めた人であり、そして読書をよくする人である。

若き日には和辻哲郎からは「葉隠れ(岩波文庫)をすすめます」とアドバイスを受けている。阿川弘之の「国を守るとは一体どういうことなのだろう。男が守るべき具体的対象は、まず愛する女と子供、親兄弟なのではないか、、」に共感している。

慶應塾長の小泉信三からは「この戦いは、戦争に負けたのではない。残念ながら、アメリカの民主主義に負けたのだ」、そして「オネスト・ダラーのために働き給え」とアドバイスを受けている。

中に河合栄次郎の言葉がある。「母を失ったということは、僕にとって実に大きな損失である。本当に喜びを共にして呉れる人がいなくなって、之からの世渡りに楽しみはなくなってしまった」。この言葉は最近母を亡くした私の心に刺さる。

まだ手にしていないが、『人生』という著者は、「 孔子のことば、読書について、自由主義社会主義、正道と権道、人間の価値と善について、鐘紡会長である著者が、若き日々に考え抜き、その拠って立つべき価値のおりかを書き記した、殊玉の人生論集」と記されている。

伊藤淳二は、「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という。共感する。

そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後に語っている。未完であるがそれなりの完結している。目的を果たし得なかったようで果たしている。そういう美しい生涯があるかもしれない。

 

天命

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